バーケンヘッド (軍隊輸送船)
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HMS バーケンヘッド(HMS Birkenhead)は、イギリス海軍(Royal Navy)のために建造された、初期の鉄製船体を持つ軍艦の一つである[要出典]。
当初は蒸気フリゲートとして設計されたが、就役前に兵員輸送船(トループシップ)へ改装された。
1852年2月26日、南アフリカ・ケープ植民地のデンジャー・ポイント(現在のガンズベイ付近)沖で座礁・沈没した。この事故では、救命艇が不足する中、兵士たちが整然と隊列を保ち、女性と子どもを優先して退船させた行動が世界的に知られることとなり、後に「ウィメン・アンド・チルドレン・ファースト」の慣行や、「バーケンヘッド・ドリル」と呼ばれる象徴的な規律行動の起源とされるようになった。
建造と設計
バーケンヘッドは、イングランド・バーケンヘッドのジョン・レアード造船所で、当初「HMS ヴァルカン(Vulcan)」の名で起工されたが、進水前後に建造地にちなんで「HMS バーケンヘッド」と改名された[1][出典無効]。
船体は鉄製で、2基の外輪式蒸気機関と帆走を併用する設計であった。
船体は8つの水密区画に分けられ、さらに機関室は縦隔壁によって4区画に分割され、合計12の水密区画を備えていた。これは当時としては先進的な構造であった。
初期の運用
1845年12月30日に進水し、1846年に初航海を行った。平均12〜13ノットの速度を記録し、性能面では高い評価を受けた。
その後しばらく係留されたのち、イングランド、スコットランド、アイルランド周辺で様々な用途に用いられた。
1847年には、アイルランド・ダンドラム湾で座礁した鉄製船SS グレート・ブリテンの引き揚げ作業を支援している。
兵員輸送船への改装
建造中、イギリス海軍では外輪推進からスクリュープロペラへの技術転換が進み、また鉄製船体に対する砲撃耐性への懸念も生じた。このため、バーケンヘッドはフリゲートとしては就役せず、1851年に兵員輸送船へ改装された。
改装により居住区が拡張され、帆装も変更された。結果として、当時の木造兵員輸送船よりも高速かつ快適な船となり、1850年にはケープ植民地までを約37日で航行している。
最終航海と沈没(1852年)
航海の経緯
1852年1月、ロバート・サルモンド艦長の指揮のもと、バーケンヘッドはイングランドのポーツマスを出航し、ケープ植民地での第8次コサ戦争に参加する兵士を輸送した。
途中アイルランドのクイーンズタウン(現コーブ)で追加の兵士と将校家族を乗せ、2月23日にケープタウン近郊のサイモンズタウンに寄港した。
同地で多くの女性と子ども、病兵が下船したが、最終目的地アルゴア湾へ向かうため再出航した。
座礁と沈没
1852年2月26日未明、バーケンヘッドは南アフリカ沿岸を航行中、海図に記載されていない岩礁に衝突した。衝突によって船首部に大きな破孔が生じ、前部区画と機関室が急速に浸水した[要出典]。
衝突から約20分後、船体は主檣付近で二つに折れ、沈没した。
沈没時の行動と犠牲
救命艇は十分に整備されておらず、使用可能な艇はごくわずかであった。
指揮官および陸軍指揮官アレクサンダー・シートン中佐の命令により、兵士たちは甲板上に整列し、女性と子どもを優先して退船させることが徹底された。
兵士たちは命令を守り、船が沈没するまで隊列を崩さなかったとされる。
最終的に、乗船者約630〜643名のうち、生存者は193名にとどまった。多くの兵士は溺死、低体温、あるいはサメによる被害で命を落とした[要出典]。
事故後の評価と追悼
事故後に開かれた軍法会議では、秩序と規律が保たれていたことが高く評価され、責任を問われる者はいなかった。
この行動は国際的に称賛され、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は、全連隊でこの事件を読み上げるよう命じたとされる。
その後、デンジャー・ポイントには灯台と記念碑が建てられ、バーケンヘッド沈没事故は現在も追悼されている[要出典]。
遺産
バーケンヘッド・ドリル
この沈没事故は、「女性と子どもを優先する」という原則が実際に組織的に実行された最初期の海難事故の一つとされる。
「バーケンヘッド・ドリル」という言葉は、絶望的な状況下でも規律と勇気を保つ行動を指す表現として定着した。
この概念は、後にラドヤード・キプリングの詩作品などでも象徴的に扱われている。