1957年、チゼロはショナ語による小説"Nzvengamutsvairo"(英訳題は"Mr Lazy-Bones"[6]または"Broom-Dodger"[3])を執筆した。この小説でチゼロは、ローデシアの農場で働く労働者の状況を詳細に描き、人種的に寛容な統合社会のビジョンを打ち出した[6]。
フォード財団からの助成金を得てチゼロは1960年にローデシアに戻り、ローデシア・ニヤサランド大学(ジンバブエ大学(英語版)の前身)で教鞭を執る予定だった。しかし、人種分離を行っている同大学が、チゼロが白人と結婚していることを知り、チゼロへのオファーを取り下げた[3]。
1960年、チゼロは国連の職員となった。アフリカ経済委員会の経済担当官としてエチオピアの首都アディスアベバに赴任し[3][7]、1963年から1968年まではケニアで国連技術支援委員会のアシスタントを務めた[3][7]。1968年から1980年までは国連貿易開発会議(UNCTAD)に勤務し、1968年から1977年まで一次産品部長、1977年から1980年まで事務次長を務めた[7][8]。
1965年にイアン・スミスがイギリスからの南ローデシアのローデシアの一方的独立宣言(英語版)をした後、チゼロはジンバブエの初期の解放闘争の交渉を担当した。ジンバブエ・アフリカ人民党のジョシュア・ンコモ(英語版)党首がロンドンを訪れた際には、チゼロも顧問団の一員として参加している。この交渉が決裂し、ジンバブエ・アフリカ人民同盟(英語版)(ZAPU)とジンバブエ・アフリカ民族同盟(英語版)(ZANU)に分裂したことで、チゼロの政治的忠誠心は大きく変化し、高校の同級生だったムガベと行動を共にすることが多くなった。
ジンバブエでの解放戦争が迫っていることを知っていたチゼロは、1970年にマラウイに農場を購入し、父や親族をローデシアから移住させた。そして1972年12月21日、ローデシアの白人入植者に対する最初の武装攻撃が、ザンベジ川のセンテナリーで発生した。一方、1972年にマラウイを訪問したチゼロは、マラウイの大統領となっていた友人のヘイスティングズ・カムズ・バンダに、国連の任期が切れたらマラウイに定住すると申し入れた。バンダはそれをはっきりと拒絶した。しかし、マラウイのチゼロの農場は、ジンバブエ独立運動の拠点として、またタンザニアのモロゴロ訓練基地に向かう多くの新兵の中継地点として機能し続け、マラウイ政府はそれを見て見ぬ振りした。
ランカスターハウス合意(英語版)の後、チゼロはジンバブエに戻り、1980年に経済計画・開発大臣に就任した。1985年の選挙では、ジンバブエ・アフリカ民族同盟・愛国戦線(英語版)(ZANU-PF)の代表としてハラレの国会議員に選出された[7]。選挙後、財務大臣に就任した。
1986年から1990年まで、世界銀行の開発委員会の議長を務めた[9]。また、環境と開発に関する世界委員会(英語版)の委員も務めた[8]。帰国後、世銀の構造調整(英語版)をジンバブエに導入する計画を立案・実施した。しかし、その過程で、チゼロの経済計画はタイミングが悪く、「戦争遂行の報酬」の分配を否定していると考えた一部のZANU-PF幹部の怒りを買った。
1990年、ジンバブエ経済の破綻を認識し、与党内の人々から構造調整計画の「失敗」を誹謗中傷され、不満を募らせたチゼロは、1991年の国連事務総長選挙に立候補した。イギリスをはじめとする多くの英連邦諸国の支援を受けたが、ブトロス・ブトロス=ガーリに敗れた[10]。
1993年に健康を害し、1995年に財務大臣を辞任した[3]。
チゼロは2002年に、ハラレのアベニュー病院で亡くなった[11]。遺体はハラレの国立英雄墓地に埋葬された[12]。