パティ・プラヴォ
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| パティ・プラヴォ Patty Pravo | |
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パティ・プラヴォ(2013年) | |
| 基本情報 | |
| 出生名 | Nicoletta Strambelli |
| 生誕 | 1948年4月9日(77歳) |
| 出身地 |
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| ジャンル | ポップス、ポップ・ロック、ビート、シャンソン |
| 職業 | 歌手、ピアニスト |
| 担当楽器 | ボーカル、ピアノ |
| 活動期間 | 1966年 - |
| レーベル | RCAイタリア、フィリップス、Compagnia Generale del Disco、Fonit Cetra、ソニー・ミュージック、ワーナー・ミュージック・グループ |
パティ・プラヴォ[1](Patty Pravo、本名・ニコレッタ・ストラムベリ Nicoletta Strambelli、1948年4月9日 - )は、イタリアヴェネト州ヴェネツィア県出身の歌手。
1966年にデビュー後、1960年代から1970年代を通じて商業的に最も成功したイタリア人女性歌手とされる。1980年代に人気が大きく低迷するも、1990年代後半に人気を回復した。代表曲に 「La bambola」(1968年)、「Pazza idea」(1973年)、「Pensiero stupendo」(1978年)、「...E dimmi che non vuoi morire」(1997年)等がある[2]。サンレモ音楽祭への10回以上の出演や各種の音楽賞を受賞するなどの活躍を続けている。レコードの累計売上は1億1千万枚を超えており、イタリア人歌手としてはミーナとアドリアーノ・チェレンターノに次ぐ3番目の記録を有している[3]。
生い立ち
1948年、ヴェネツィアにて、モーターボートの運転手であった父親のアルド・ストラムべり(1919年-1991年)と、主婦で母親のブルーナ・カポリン(1927年-2018年)の子として生まれる[4]。10代前半をヴェネツィアのサンタマルタにあった祖母マリアの家があるCalle dei Secchiで過ごし、またメストレにいた両親から2人の年下の子供たちの世話を両親から託されていた。
ヴェネツィアで暮らしていた頃には、若き日のアンジェロ・ジュゼッペ・ロンカリ枢機卿(後の教皇ヨハネ23世)とアメリカの詩人エズラ・パウンドと親交があったとされる[5]。幼い頃からヴェネツィアのフェニーチェ劇場でダンスとピアノを学び、10歳のときにベネデット・マルチェッロ音楽院に進学し、4年間の指揮コースを修了した。
1962年に祖父のドメニコの死後、その悲しみからロンドンに逃げるように移住するも、わずか2日後にイタリアに戻り、その後、ローマへと移住した[5]。ローマの有名なナイトクラブであるパイパー・クラブ(The Piper Club)で歌っていたところ、弁護士兼エージェントのアルベリゴ・クロセッタにスカウトされ芸能の道への扉が開かれた。
デビュー後、クラブの名前にちなみ、「パイパー・ガール」というニックネームを名付けられた。また、「プラヴォ」というステージネームは、ダンテの神曲の一節(地獄篇 第三歌 84 Guai a voi, anime "prave!" 貴様ら悪党どもの亡霊に災いあれ!)から取られているという[6]。
1960年代と1970年代 人気最盛期

1966年に、ファースト・シングル「Ragazzo triste(Sad Boy)」をリリース。アメリカの夫婦デュオであるソニー&シェールの「But You're Mine」のイタリア語によるカバーであった本曲はスマッシュヒットとなり、後にバチカン放送で放送される最初のポップソングとなった[7]。
1967年にシングル「Se perdo te」(英国のシンガーソングライター、ポール・コーダ (Paul Korda)作曲によるP.P.アーノルドの楽曲のカバー)をリリース。なお、彼女のバンドメンバーであり、最初の夫となる英国のベーシストゴードン・ファゲッター (Gordon Faggetter)とこの頃知り合っている[8]。
1968年に、初のナンバー1ヒット、「La bambola」(人形)をリリース、またセルフタイトルのデビュー・アルバム『Patty Pravo』(1968年)もリリースし、イタリアのアルバムチャートで1位を獲得する。「La bambola」900万枚以上を売り上げたとされており、自身最大のヒット曲となっている。
1969年にセカンド・アルバム『Concerto per Patty』がリリースされ、シングル 「Tripoli 1969」と 「Il paradiso( Paradise)」が収録された。ルチオ・バッティスティによって作曲された後者は、イタリアの音楽フェスFestivalbarで演奏された。
1970年、サンレモ音楽祭に初参加し、リトルトニーとのデュエットで「La spada nel cuore(A Sword in the Heart)」を歌い、5位入賞となった。その後、第2のセルフタイトルのアルバム『Patty Pravo』(1970年)をリリース、イタリアのチャートのトップ10に入り、Festivalbarで演奏された「Per te(For You)」が収録された。
1971年リリースの『Bravo Pravo』からは「Tutt'alpiù」で大ヒットした。
1971年から1972年の間には、彼女のイメージと芸術的方向性を変えるためフィリップス・レコードのアルバム3部作を録音し、リリースした。
1972年、彼女はイタリア人デザイナーのフランコ・バルディエーリと2回目の結婚するも、ほどなく離婚する[9]。
1973年、かつての所属レーベルであるRCAイタリアと再契約し、キャリアの最大のヒット曲の1つとなるナンバーワン・シングル「Pazza idea(Crazy Idea)」をリリース。この曲が収録された同名アルバム『Pazza idea』はイタリアのアルバムチャートで1位を獲得した。続いて、シングル「Come un Pierrot(Like a Pierrot)」と「Quale signora(Which Lady)」をリリースした。
1974年、前作に続けて1位を獲得したアルバム『Mai una signora(Never a Lady)』をリリース。
1975年と1976年にリリースされたアルバム『Incontro(The Meeting)』、『Tanto(So Much)』(はアルバムの曲をアレンジしてキーボードを演奏したヴァンゲリスとのコラボレーション)は、それぞれイタリアのトップ10にチャートインし、シングルもヒットした。
1977年、「Tutto il mondo è casa mia」(全世界は私の家)をリリース、イタリアのシングルチャートの3位を記録した。

1978年、アルバム『Miss Italia』をリリースした。Amanda LearとGrace Jonesが出演し、論争を引き起こしたTV番組「Stryx」に提供した曲を収録したキャリアの最大のヒットの1つになる「Pensiero stupendo」(Wonderful thought)」が含まれていた。
1979年、アルバム『Munich album』収録の「オートストップ」でトップ20ヒットを記録した。
1980年代と1990年代 低迷と復活
1980年、プレイボーイのイタリア版でヌードを披露するも、イタリアでのメディアから敵対的な反応を受けたこともあり、アメリカに移住する[10]。
1982年にリリースされたアルバム『Cerchi(Circles)』はこれまでで最低の売上を記録した。このころを境に、彼女の人気は1980年代に大きく衰退し、リリースしたアルバムはチャートインしなくなる等彼女の以前の作品の商業的成功を収めることができなくなる。
1982年、アメリカ人ギタリストのジョン・エドワード・ジョンソンと結婚。
1984年、シングル 「Per una bambola( For a Doll)」はわずかにヒットし、サンレモ音楽祭で批評家賞を受賞したものの、アルバム『Occulte persuasioni』(隠された説得)は彼女のデビュー以来にリリースされた新作アルバムとしては初めてチャートインすることができなかった。
1985年に、Festivalbarでも演奏した曲「Menù」でわずかなヒットを収める。
1987年、再びサンレモ音楽祭に参加したが、彼女の曲「Pigramente signora(Lazily a Lady)」は人気を得ず、さらにダン・フォーゲルバーグの楽曲「To the Morning」を盗用したとして告発されてしまう。騒動は彼女のヴァージン・レコードとの新契約のキャンセルにつながることとなった。
1989年、アルバム『Oltre l'Eden...』をリリース、前作と同様にチャートインしなかったもの、ファンからは最高作品の1つと評価が高い。
1990年、サンレモ音楽祭で曲「Donna con te(A Woman with You)」を演奏する予定だったものの、イベントの直前に歌うことを拒否する騒動を起こす。その後、この歌はアンナ・オクサに渡され、フェスティバルで演奏された。同年、クラシックヒットの再録音のアルバムをリリースした。
1992年、大麻を所持していたとして逮捕される、その後3日で釈放された。
1994年に、中国でコンサートを行い、中国で演奏する最初のイタリア人アーティストとして歴史を作った。彼女の次のアルバム『Ideogrammi』は中国ですべて制作され、中国の音楽と文化にインスピレーションを受けた作風となっている。
1995年に、「I giorni dell'armonia」(調和の日)が、11年ぶりにイタリアのトップ20内にチャートインする。
1996年、音楽活動デビュー30周年を迎え、過去のヒット曲ツアーを行う。
1997年には再びサンレモ音楽祭に出演、演奏した「... E dimmi che non vuoi morire」(…そして私に死にたくないと言って)は評論家の賞を受賞し、投票コンテストで8位となる。その後発売したシングルはチャートで大成功を収め、イタリアで2位を獲得(これは1970年代以来の彼女の最高記録となる)すると、彼女の最初のライブ・アルバム『Bye Bye Patty』がトップ5にランクインするなど、1980年代の低迷を終わらせる人気復活の年となった。
1998年、アルバム『Notti guai elibertà(Nights, Trouble and Freedom)』では、イヴァノ・フォッサッティ、フランコ・バッティアート、ルーチョ・ダッラ等の有名なイタリアのソングライターと仕事をし、アルバムは20年ぶりにトップ10入りするヒットとなった。シングル「Les etrangers」(「Strangers」)と「Strada per un'altracittà(Road to Another City)」は、Festivalbarで演奏された。
2000年以降 現在

2000年リリースのアルバム、『Una donna da sognare』は6位を記録し、タイトル曲もヒットシングルとなる。 2002年にリリースされた『Radio Station』もトップ10入りを果たし、ファースト・シングル「L'immenso」は、サンレモ音楽祭で16位に入賞する。同年、長期のツアーを行った。
2004年のアルバム『Nic-Unic』は、若いソングライターとのコラボレーションし、革新的なアバンギャルドなサウンドを披露した。シングル「Che uomo sei(What Kind of Man Are You)」はチャートで成功を収めた。
2007年に、アルバム『Spero che ti piaccia ...』をリリース。フランス人歌手ダリダへのオマージュ作品であり、フランス語、イタリア語、アラビア語で歌われた曲を含んでいた。同年後半に、自伝『Bla, bla, bla...』を出版。
2008年、自身最大・最初のヒット曲「La bambola」の40周年を記念して、新バージョンをリリースした。同年、ツアーを行い、ヴェローナ・アリーナでレコーディングされた2枚組ライブ・アルバム『Live Arena di Verona – Sold Out』をリリースした。
2009年にサンレモ音楽祭に「E ioverròun giornolà(And I'll Be There One Day)」という歌で参加、 2011年にも「Il vento e le rose」(風とバラ)で参加するも、大きなヒットにはならなかった。
2011年、アルバム、『Nella terra dei pinguini』(ペンギンの国で)は、イタリアのトップ20内にチャートインする。
2012年に、ファウスト・ブリッツィの映画と同名ののシングル「Com'èbello far l'amore」(愛はいかにして素敵か)をリリースした。
2014年、プラヴォの音楽に夢中になっている2人の兄弟について語るPanos H. Koutras監督のギリシャ映画『Xenia』にカメオ出演した[11]。
2016年、サンレモ音楽祭で「Cieli immensi」(「Immense Skies」)をパフォーマンスして6位になり、3番目の評論家賞を受賞。シングルは商業的に非常に成功し、イタリアでトップ20のヒットに達し、アルバム『Eccomi(Here I Am)』は6位を記録した。
2017年に2作目の自伝『La cambio io la vita che...』を発表した。
2019年、10回目の参加となるサンレモ音楽祭で、イタリアの歌手ブリガとのデュエット「Un po 'come la vita」(「A Little Like Life」)を演奏した。大ヒットとはならず、21位を記録した。同年にアルバム『Red』を同時にリリース、イタリアのトップ20入りを果たした。