パトリック・ヘンリー (リバティ船)
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| パトリック・ヘンリー | |
|---|---|
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1941年9月のパトリック・ヘンリー | |
| 基本情報 | |
| 建造所 | ベツレヘム・フェアフィールド造船所、メリーランド州ボルチモア[1] |
| 運用者 | ライクス・ブラザーズ・スチームシップカンパニー |
| 艦種 | リバティ船 |
| 級名 | EC2-S-C1標準型 |
| 建造費 | 1,613,203ドル[2] |
| 艦歴 | |
| 起工 | 1941年4月30日 |
| 進水 | 1941年9月27日 |
| 竣工 | 1941年12月30日 |
| その後 |
1946年7月、フロリダ沖で座礁 1946年8月22日アラバマ州モービルの国防予備船隊に保管 |
| 要目 | |
| 総トン数 | 7,176トン |
| 全長 | 135m |
| 最大幅 | 17m |
| 吃水 | 8.4646 m |
| 機関 | 2,500 ihp (1,860 kW) |
| 最大速力 | 11.5ノット (21.3km/h) |
| 兵装 |
102mm砲1門 37mm砲2門 機銃6基 |
パトリック・ヘンリー (Patrick Henry)は最初に進水したリバティ船である。ヘンリーはベスレヘム造船のメリーランド州ボルチモアにあるベスレヘム・フェアフィールド造船所で建造された。ヘンリーの船名はアメリカの弁護士、農園主、建国の父であり1776年~1779年、1784年~1786年に初代と6代バージニア州知事を務めたパトリック・ヘンリーにちなむ。

リバティ船は当初世間からのイメージが悪く、世論を和らげようと1941年9月27日をリバティ船隊の日と指定し、最初の14隻の「緊急」船がその日に進水した。これらの内最初の船(MCハルナンバー14)がパトリック・ヘンリーであり、フランクリン・D・ルーズベルト大統領によって進水した[3]。同じ日に国中の様々な造船所で進水した他の「緊急」船にはジョン・C・フレモント、ルイーズ・ライクス、オーシャン・ベンチャー、 オーシャン・ボイス、スター・オブ・オレゴン、スチール・アーティザンが含まれていた[4]。
進水
進水式で行われた演説でルーズベルトは1775年3月23日のパトリック・ヘンリーの「私に自由を与えよ、然らずんば死を与えよ!」という演説に言及した。ルーズベルトはこの船はヨーロッパに自由をもたらすと言い、これが「リバティ船」という名称の由来となった。パトリック・ヘンリーはアメリカ最高裁判所判事の妻ロバート・H・ジャクソン夫人とスイスの大使カール・ブルグマンの妻であり副大統領の姉妹であるブルグマン夫人の支援の下、ヘンリー・A・ウォレス副大統領の妻イロ・ブラウン・ウォレスによって進水した。イロ・ウォレスがパトリック・ヘンリーと命名した。1941年12月30日、ヘンリーの艤装が完了した[4]。
船歴
ヘンリーは処女航海で中東へむかった。第二次世界大戦中、ヘンリーはムルマンスク(PQ18船団の一員として[5])、トリニダード、ケープタウン、ナポリ、ダカールを含む港へ12回の航海を行った[4]。
ヘンリーは戦争を生き延びたが、1946年7月にフロリダ沖の北緯25度08分 西経80度16分 / 北緯25.133度 西経80.267度の環礁で着底して大破した。ヘンリーはアラバマ州モービルの国防予備船隊に引き下げられた。1958年9月18日、ヘンリーはベスレヘム・スチールに76,191ドルで売却された。1958年10月22日、ヘンリーは船隊から除籍され、ボルチモアでスクラップとなった[6][7][5]。