ヒエロニムス・フランケン1世
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現在のアントウェルペン州のヘーレンタルス(Herentals)で、あまり有名でない画家のニコラース・フランケン(Nicolaas Francken)の息子として生まれた[1]。弟に画家になったフランス・フランケン1世(Frans Francken I: c.1542-1616)とアンブロシウス・フランケン1世(Ambrosius Francken I: 1544-1618)らがいる。甥の画家ヒエロニムス・フランケン2世(Hieronymus Francken II: 1611-1671)と区別するために「年長のヒエロニムス・フランケン(Hieronymus Francken de Oudere)」とも呼ばれる。
父親らとヘーレンタルスからアントウェルペンに移り、アントウェルペンの画家フランス・フロリス(1519/1520-1570)の弟子になったとされている。1565年の作品にヴェネツィアのカーニバルを描いた作品があり、アントウェルペンでの修行の後、イタリアに旅した可能性があるが、確かではない[2]。
1566年から数年間、フランスで働き、フォンテーヌブロー宮殿の装飾に参加した画家の一人であった[3]。1571年にフランス・フロリスが亡くなって未完で残された絵画「東方三博士の礼拝」を完成させるために一時、アントウェルペンに戻った。1574年にもアントウェルペンで活動した記録がある。
1578年から亡くなるまではパリやフォンテーヌブローで暮らし、1594年にフランス王室の宮廷画家に任じられた。1585年頃、フランスに滞在したオランダの画家、アブラハム・ブルーマールト(1566-1651)を短期間、指導した[4]。
娘のイザベラ・フランケン(Isabella Francken)も画家になり17世紀の初めにいくつかの作品をのこしている[5]。
歴史画や肖像画も描いたが、ダンスを楽しむ人々や、宮廷の人々を描いた風俗画で知られている。
