ヒュー・チャールズ・クリフォード
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サー・ヘンリー・ヒュー・クリフォード(1826年9月12日 – 1883年4月12日)と妻ジョセフィーン・エリザベス(1913年1月15日没、ジョセフ・アンスティスの娘)の長男として、1866年3月5日に生まれた[2]。父は第7代チャッドリーのクリフォード男爵ヒュー・クリフォードの三男でイギリス陸軍の軍人である[2]。サリー州ウォバーン・パーク(Woburn Park)でウィリアム・ジョセフ・ピーター(後の第13代ピーター男爵)の教育を受け、バークシャーのサンドハーストにある王立陸軍大学の入学試験にも合格したが、17歳のときに父が急死して、家計が苦しくなった[1]。そのため、海峡植民地総督で親族(祖父の姉の息子)にあたるフレデリック・ウェルドに頼り、在ペライギリス弁理公使ヒュー・ローの秘書官に任命され、1883年にイギリス領マラヤに到着した[1]。
クリフォードがマレーに到着したとき、イギリスが直接統治していたのは海峡植民地だけであり、マレー半島諸州ではイギリス人顧問が国政を握る形で間接統治を敷いていた[1]。1887年にウェルドの指令を受けてパハンのスルターンAhmad Muʽazzamを説得し、外交権をイギリスの支配下に置くことに同意させると、クリフォードは在パハンイギリス事務官(agent)に任命された[1]。事務官の権限が少ないため、ウェルドの後任であるセシル・クレメンティ・スミスはAhmad Muʽazzamに迫ってクリフォードを弁理公使に昇格させた[1]。一時赤痢にかかって本国で療養することを余儀なくされたが、1890年にマレーに戻り、1891年から1895年までパハン内陸部の反乱鎮圧に取り掛かった[1]。
反乱鎮圧に成功すると、在パハンイギリス弁理公使に就任[1]、1899年12月7日にラブアン直轄植民地総督に任命された[3]。1900年に北ボルネオ会社に出向したが、北ボルネオ会社の理事との論争によりラブアン総督を辞任した[1]。1900年5月23日、聖マイケル・聖ジョージ勲章コンパニオンを授与された[4]。辞任後、一時マレー半島に戻るものの、1901年9月に病気により再び帰国した[1]。
マレー滞在中にマレー語を流暢に話せるようになり、先住民族に関する情報を収集したことで本国で著述業に取り掛かることができ、王立地理学会などに論文を提出したほか、1904年に『Further India: being the story of exploration from the earliest times in Burma, Malaya, Siam, and Indo-China』を上梓した[1]。また1898年にも小説『Since the Beginning』を著しており、文壇ではジョゼフ・コンラッドから評価された[1]。『オックスフォード英国人名事典』はクリフォードの著作でヨーロッパとアジアとの相互作用、イギリスの官僚が未知で敵対的な可能性もある環境で働くこと、現代化のマレー人への影響が描写されているとした[1]。
1903年秋には海外赴任ができるほど体調が回復したが、このときはマレーに復帰せず[1]、1904年9月17日にトリニダード・トバゴの植民地長官に任命された[5]。1907年2月12日、英領セイロンの植民地長官に任命された[6]。1909年6月25日、聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・コマンダーを授与された[7]。
トリニダード・トバゴもセイロンも新しい植民地ではなく、官僚制度が確立していたが[1]、1912年9月19日に英領ゴールド・コースト総督に任命された[8]。ゴールド・コーストでは制度が確立しておらず、クリフォードは立法議会と行政を改革して、公共事業に投資した結果、生活が改善し、官僚のやる気が高まったと評された[1]。
1919年6月25日にナイジェリア総督に昇進した[9]。ナイジェリアは前任者のフレデリック・ルガードが北部ナイジェリア保護領と南部ナイジェリア保護領を合併して設立していたが、クリフォードはルガードが残した行政をカオスと断じて改革を断行した[1]。1921年国王誕生日記念叙勲の一環として、1921年6月3日に聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロスを授与された[10]。
1924年11月3日、セイロン総督に昇進した[11]。1925年国王誕生日記念叙勲の一環として、1925年6月3日に大英帝国勲章ナイト・グランド・クロスを授与された[12]。
1927年5月5日、海峡植民地総督に任命された[13]。クリフォードはマレー以外の海外赴任を「追放」として考えており、この任命は望まれたものだったが、このときには60代になり、しかも40年以上の海外赴任でダメージが溜まっていた[1]。この最後の任期において、クリフォードは奇行が目立つようになり、とうとう1929年10月にマレーを発つことを余儀なくされた[1]。
一時は叙爵も噂されたが、最後は精神科病院であるローハンプトンのプライオリー病院に入院して、1941年12月18日に気管支肺炎により死去した[1]。マレー作戦開始から10日後のことだった[1]。
