ピエル・フランチェスコ・モーラ
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略歴
現在のスイスのティチーノ州のコルドレリオ(Coldrerio)で、建築家の息子に生まれた。4歳になった1616年に、家族とローマに移った。ローマで画家、ジュゼッペ・チェーザリ(1568-1640)の弟子になった[1] 。初期の活動についてはほとんど知られていないが、1633年から父親とヴェネツィアやボローニャで働き、画家として修行した。1637年にルッカ出身の版画家のピエトロ・テスタ(Pietro Testa: 1611–1650)と親しかった[2]。1641年に故郷の神学校(Oratorio Madonna del Carmelo)の壁画を描いた[3][2][1] ボローニャでフランチェスコ・アルバーニの助手としても働いた[4]。
1647年からはローマで働き、1651年から1652年はローマ教皇インノケンティウス10世の甥の枢機卿カミッロ・パンフィーリ (Camillo Francesco Maria Pamphilj)の一族のネットゥーノの邸宅の装飾の仕事をした[5]。ヴァルモントーネのドーリア・パンフィーリ宮殿(Palazzo Doria Pamphilj)の装飾の仕事にも加わったが1659年に依頼主と裁判になり、1664年に敗訴して仕事を失った。
1655年にアカデミア・ディ・サン・ルカの会員となり、1662年と1663年にはアカデミアの一年任期の会長に選ばれた[3]。
1655年にローマ教皇になったアレクサンデル7世から注文を受けて1656年にローマのクイリナーレ宮殿に描いた壁画でも知られている。
1666年5月にローマで没した。