ピエール・ド・ラリヴェ2世

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ピエール・ド・ラリヴェ2世Pierre de Larivey le jeune, 1591年9月18日-1633年10月)は、17世紀フランスで人気を博した占星術師。彼の名を用いた暦書は彼の死後も連綿と刊行され続け、ノストラダムスマチュー・ランスベールと並び、暦書の代表的なブランドの一つとして通用した。本名はピエール・パトリ (Pierre Patris) で、筆名は劇作家ピエール・ド・ラリヴェの甥に当たることに基づく。

ピエール・パトリは1591年にトロワで生まれた。未公刊の自身の手稿には1591年9月18日2時7分18秒に生まれたと記されているというが、これは確認のしようがない。母親が劇作家のラリヴェの姉妹と推測されており、著書では「ピエール・ド・ラリヴェ2世」を名乗っていた(「2世」はしばしば略されたので、おじのラリヴェと混同されることがある)。

彼は、小麦の計量官や印刷工としての職歴も積んでいたが、何より占星術師としてその名を知られた。おじのラリヴェも偽名を用いて占星術的な暦書を刊行していたが、そのおじの死(1619年)と前後するように活動を開始し、多くの著書を上梓した(後述を参照)。彼は1633年に暗殺されたが、事前にこれを予言していたとされる(他方で60歳まで生きるとも予言していたというが、こちらは外れた)。また、異説では、自身の死因を占った際に「魚の骨」と出たことを気にして、以降魚を食べることがなかったと伝えられている。

ピエール・パトリの息子のピエール・パトリ2世(1622年5月25日-1708年4月15日)もピエール・ド・ラリヴェとして占星術的な暦書を刊行していた。ラリヴェ2世の死後出されたラリヴェ名義の暦書には、単なる偽作のほか、この3世のものが含まれていると思われる。ただし、明確にラリヴェ3世の著書と特定できるのは、彼の肖像画が掲載された『閏年1648年向けの日用大暦 Le Grand Almanach journalier pour l’an de grâce et de bissexte, Mil six cents quarante-huit 』のみである。


暦書

外部リンク

参考文献

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