ピエール・ラプラード
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南仏オード県のナルボンヌのブルジョアの家庭で生まれた。父親は検事であり[1]、ラプラードは、初め法律を学んだが、1896年から彫刻家のアントワーヌ・ブールデルのスタジオで学び、ブールデルに芸術家になることを勧められ、パリ国立高等美術学校に入学するが、独学を好みすぐに退学した。1900年に有力な画商のアンブロワーズ・ヴォラールに、初めて作品を購入された。1900年に、ウジェーヌ・カリエールの学校でアンリ・マティスや後の「フォーヴィスム」の画家たちと知り合った。1905年のサロン・ドートンヌに彼らと共に出品した。1901年のアンデパンダン展にも参加した。陶芸家のアンドレ・メテ(André Metthey: 1871-1920) とも共同制作を行った。画商のウジェーヌ・ドルエ(Eugène Druet)が出版した『マノン・レスコー』を題材にした版画集を制作した。
1906年にはイタリアとオランダを旅し、パリの画商ベルト・ヴェイユ(Berthe Weill)の画廊でグループ展を開いた。1907年、ウジェーヌ・ドゥリュエ画廊(Galerie Eugène Druet)で個展を開き、ブリュッセルの美術家グループの「ラ・リーブル・エステティーク(自由美学)」の展覧会に参加した。1911年に結婚した。ニューヨークとシカゴで開催され、ヨーロッパの新しい美術をアメリカに紹介した展覧会のアーモリー・ショーに出展した。ジャック・ルーシェ(Jacques Rouché)がパトロンになった劇場テアトル・デ・ザール(Théâtre des Arts 後のThéâtre Hébertot)で上演されたオペラ・バレエ『ピグマリオン』の衣装と舞台のデザインをした。
第一次世界大戦中に出征し、軍事十字章(Croix de guerre)を受勲した。1923年に創立されたグループ展「サロン・デ・チュイルリー(Salon des Tuileries)」の創設メンバーの一人になり、1930年まで出展した。画商から注文を受けて多くの版画集を出版し、ポール・ヴァレリーやポール・ヴェルレーヌ、マルセル・プルーストらの書籍の挿絵を描いた[2]。パリ7区にスタジオをもち、自宅はパリ郊外のフォントネー=オー=ローズに持った[3] 。
1925年にフォントネー=オー=ローズで亡くなった。