ピム・フォルタイン
From Wikipedia, the free encyclopedia
ピム・フォルタイン | |
|---|---|
| Pim Fortuyn | |
![]() 2002年5月4日の写真(暗殺2日前) | |
| 生誕 |
Wilhelmus Simon Petrus Fortuijn 1948年2月19日 |
| 死没 |
2002年5月6日(54歳没) |
| 死因 | 暗殺 |
| 墓地 | イタリア サン・ジョルジョ・デッラ・リキンヴェルダ |
| 住居 | オランダ ロッテルダム |
| 国籍 | オランダ |
| 別名 | Pim Fortuijn |
| 出身校 |
アムステルダム自由大学 (社会科学の学士号・修士号) フローニンゲン大学 (Ph.D) |
| 職業 | 政治家、公務員、社会学者、会社役員、政治コンサルタント、政治評論家、作家、コラムニスト、編集者、教師、教授 |
| 政党 |
労働党 (1974 - 1989) 自由民主国民党(mid 1990s) 住みよいオランダ(2001 - 2002) 住みよいロッテルダム (2001 - 2002) ピム・フォルタイン党(2002) |
| 宗教 | ローマ・カトリック |
| 公式サイト |
www |
ピム・フォルタイン(Pim Fortuyn, 1948年2月19日 – 2002年5月6日)は、オランダのコラムニスト、政治家、社会学者、作家、またピム・フォルタイン党創設者。
フォルタインの多文化主義、移民、イスラム教への率直な見解は、オランダで多くの論争となった。彼はイスラム教を「遅れた文化(a backward culture)」だと公言し、法的に可能であれば、イスラム系移民の流入を停止すべきだとした[1]。メディアらはフォルタインを極右ポピュリストとして扱かったが、彼自身はこのレッテルを強く拒絶していた[2]。
フォルタインは、ベルギーのフィリップ・デウィンター 、オーストリアのイェルク・ハイダー、フランスのジャン=マリー・ル・ペンなどの極右政治家と比較されるたびに、明確に距離を置いた。フォルタインは自身の位置付けをイタリアのシルヴィオ・ベルルスコーニやエドムント・シュトイバーのような「中道右派」であるとし、元オランダ首相ヨープ・デン・アイル、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディを称賛していた。
フォルタインはまたポルダー・モデルや、ウィム・コック首相の政策を非難しており、自身のピム・フォルタイン党のイデオロギーはプラグマティズムでありポピュリズムではないと繰り返していた。さらにフォルタインはゲイである事を公表していた。
2002年5月、フォルタインはオランダ総選挙の運動中、動物愛護団体(WWFレンジャー[3])に所属する青年に射殺された[4][5][6]。
政治家として
1948年、北ホラント州のフェルセンでカトリックの家に生まれる。 アムステルダム自由大学卒業後、1971年にフローニンゲン大学から社会学の博士号を取得。当時の彼はマルクス主義者であり、オランダ共産党の支持者でフローニンゲン大学の准教授としてマルクス主義の社会学を教えていた[7]。その後彼は労働党に入党した。
1991年にはエラスムス大学の特命教授に就任、1995年まで務めた。
1992年、フォルタインは「Aan het volk van Nederland(オランダの人々へ)」とした書籍において、18世紀のオランダ政治家Joan Derk van der Capellen tot den Polをカリスマとして公言したことで、論争を引き起こした。
その後、フォルタインは地域政党すみよいロッテルダムの代表となり、2002年4月のロッテルダム市総選挙にて大勝した。
政党創設から暗殺まで
しかし政党内で発言を問題視されたため、2002年2月11日には政党ピム・フォルタイン党(Lijst Pim Fortuyn)を設立し、国政に挑戦した。庶民にわかりやすい言葉で解説し、市民が政治に参加して楽しむ方法を教えつつ演説活動を展開した。同年3月ロッテルダム地方選では得票率35%を獲得。しかし国政選挙直前の2002年5月6日、ヒルバーサムの国営テレビ番組出演後、駐車場で動物愛護団体に所属する青年に射殺された。オランダにおける政治的暗殺事件は、1584年のウィレム1世暗殺事件、17世紀後半のデ・ウィット兄弟暗殺事件以来であった。9日後に控えていた総選挙の選挙運動は一時中断となったが、選挙そのものは予定通り実施された。
暗殺事件以後

葬儀は国葬級の扱いをうけ、5月15日の総選挙でLPFは18%の得票率を得て、キリスト教民主同盟(CDA)の43議席についで26議席を獲得した。のちLPFは内紛で分裂するが、ピム・フォルタイン人気は衰えることなく、2004年の世論調査ではオランダ史上もっとも偉大な人物第一位に選ばれた[8]。
犯人の犯行動機は不明である[9]。
ピム・フォルタイン暗殺事件は、さらに2004年11月2日に起こったテオ・ファン・ゴッホ暗殺事件[10]とあわせて、オランダ社会における“寛容性”の原理を揺さぶることとなった[11]。テオ・ファン・ゴッホは映画監督でもあり、ピム・フォルタインのドキュメンタリー映画制作をはじめていたという。
暗殺事件後のピム・フォルタイン党の支持者は類似するヘルト・ウィルダースの自由党に流れ[12]、2008年に解散することとなった(フォルタイン党最後の党首は自由党に入党している)。
