ピョートル・ウトキン
From Wikipedia, the free encyclopedia
ヨーロッパロシア西部のタンボフで生まれた。サラトフの美術学校でヴァシリー・コノヴァロフ(Василий Васильевич Коновалов)らに美術を学んだ後、1897年からモスクワ絵画・彫刻・建築学校でイサーク・レヴィタン、コンスタンチン・コローヴィン、ヴァレンティン・セローフらに学び、1907年に卒業した[2]。ヴィクトル・ボリソフ=ムサトフ(1870-1905)やパベル・クズネツォフ(1878-1968)といった画家たちと親しくなり影響を受けた[3]。
1904年に、モスクワ絵画・彫刻・建築学校の卒業生たちとサラトフで開催された「赤いバラ(Алая роза)」展を開催した。グラフィック・デザインの分野でも活動し1906年から1909年にかけて、雑誌「Золотое руно」の挿絵を制作し、書籍の挿絵も制作した。
1907年に仲間とモスクワでグループ展「青いバラ(Голубая роза)」展を企画した。1910年にアレクサンドル・ベノワらの美術家グループ「芸術世界」に入会した。
1917年のロシア革命の後は、サラトで暮らし、1918年から1931年の間はサラトフの美術学校で美術教師として働いた。
1924年に「芸術世界」や「青いバラ」のメンバーによって作られた「四芸術(Четыре искусства)」に参加し1925年、1926年、1928年の展覧会に参加した。1925年に革命ロシア芸術家協会(Ассоциация художников революционной России)の展覧会にも出展した。
ソビエト連邦芸術アカデミー(Академия художеств СССР) に招かれ、1931年にレニングラード(サンクトペテルブルク)に移り、美術学校の絵画部門の教授になった[2]。
1934年にレニングラードで亡くなった。多くのピョートル・ウトキンの作品は第二次世界大戦のレニングラードの戦いで失われた[2]。