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ファタヒラ

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ファタヒラ(インドネシア語: Fatahillah)は、16世紀のジャワ島西部で活動したイスラム教徒の軍人・宗教者である。ファラテハン(インドネシア語: Falatehan)、ファディラ・ハン(インドネシア語: Fadhillah Khan)などの名でも知られ、1527年にスンダ・クラパを占領し、これをジャヤカルタと改称した人物として、現在のジャカルタの歴史において重要な位置を占めている[1]。

生誕 不詳
死没 不詳
別名 ファラテハン、ファディラ・ハン
著名な実績 スンダ・クラパの征服、ジャヤカルタの建設
概要 ファタヒラ, 生誕 ...
ファタヒラ
インドネシアの切手。右にファタヒラが描かれている。
生誕 不詳
死没 不詳
別名 ファラテハン、ファディラ・ハン
著名な実績 スンダ・クラパの征服、ジャヤカルタの建設
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一方、ファタヒラがスナン・グヌン・ジャティ(シャリフ・ヒダヤトゥッラー)と同一人物であるかについては、歴史学上の議論がある。ポルトガル側の史料に現れる「ファラテハン」と、チルボン側の史料に現れる「ファディラ」ないし「ファディラ・ハン」との関係についても複数の説があり、人物の出自や本名を含めて確定していない部分がある[2]。

名称

ファタヒラの名称には複数の異形が存在する。ジャカルタの歴史を扱うインドネシア側の資料では、ファラテハン(Falatehan)、ファディラ(Fadillah)などの名称とファタヒラが関連づけられている。ポルトガル側の史料では「Faletehan」などの表記が用いられた一方、チルボンの伝承・史料では「Fadhillah」または「Fadhillah Khan」とされることがある[3]。

これらの名称を同一人物の異なる表記とみなす説がある一方、史料の成立時期や内容を検討した研究では、ファタヒラ、ファラテハン、スナン・グヌン・ジャティをそれぞれ別人として扱う見解も提示されている。したがって、現在の研究上は各名称の関係を無条件に同一視することには慎重さが求められる[2]。

生涯

出自

ファタヒラの出生地、生年、家系については確実な同時代史料が乏しく、後世の伝承によって異なる説明がなされている。インドネシアの歴史叙述では、スマトラ島北部のパサイと結び付けられることがあり、イスラム教の学識者としてジャワ島西部で活動したと説明されることが多い[2]。

ファタヒラの人物像については、後世に成立した史料や伝承が大きな役割を果たしている。そのため、出生地や親族関係などについては、確定した事実と後世の系譜伝承を区別して扱う必要がある。

スンダ・クラパの占領

16世紀前半、スンダ王国の主要港であったスンダ・クラパでは、ポルトガルとスンダ王国との関係が形成されていた。これに対して、ジャワ島西部へのイスラム勢力の拡大を進めていた勢力がスンダ・クラパを攻撃し、ファタヒラはその軍事行動の指導者として知られるようになった[1]。

1527年、ファタヒラが率いる軍勢はスンダ・クラパを占領し、港の名称をジャヤカルタ(インドネシア語: Jayakarta)に改めたとされる。ジャカルタ市当局は6月22日をこの出来事の日として現在のジャカルタの成立と結び付けているが、歴史研究では占領の日付について異説も存在する。ジャカルタ市の公的資料でも、1527年6月22日説のほか、16世紀史研究者のホセイン・ジャヤディニングラットによる1526年末説が紹介されている[3]。

ジャヤカルタは「勝利」などの意味を持つ名称として説明され、後に「ジャカルタ」という地名へと変化したとされる。現在のジャカルタ市も、1527年6月22日のスンダ・クラパ占領とジャヤカルタへの改称を市の歴史上の重要な出来事として位置付けている[1]。

ジャヤカルタの統治

スンダ・クラパを占領した後、ファタヒラはジャヤカルタの統治体制の形成に関与したとされる。ジャヤカルタはチリウン川河口付近の港湾都市として発展し、後世の資料では、中心部にモスク、広場、王宮などが置かれ、市場がその北側に位置する都市構造であったと説明されている[4]。

ジャヤカルタはその後、バンテンとの政治的関係を強めた。ジャカルタ州の公的資料では、ファタヒラによるスンダ・クラパ占領後、ジャヤカルタとバンテンとの関係が形成され、婚姻関係などを通じて両者の結び付きが強まったと説明されている[3]。

晩年と死後

ファタヒラの晩年や死去の時期については、確実な史料が少なく、詳細は明らかになっていない。また、後世の系譜資料ではチルボンやバンテンの歴史的人物との関係が詳しく語られているが、これらの情報については史料批判を要する。

ファタヒラの名は後世のジャカルタにおいて、通り、建築物、教育機関などに用いられるほか、旧バタヴィアの中心部にあるファタヒラ広場(インドネシア語: Taman Fatahillah)の名称にも残されている。ファタヒラ広場は1973年にこの名称が付けられ、ジャカルタの歴史におけるファタヒラの位置付けを記念するものとされている[5]。

人物同定をめぐる議論

ファタヒラについては、ファラテハン、ファディラ・ハン、スナン・グヌン・ジャティなどとの関係をめぐって歴史学上の議論が存在する。古くから、ポルトガル史料に現れるファラテハンをスナン・グヌン・ジャティと同一人物とする説があり、その場合にはファタヒラも同一人物として扱われることがある[2]。

これに対して、チルボンの『プルワカ・チルボン・ナガリ』(インドネシア語: Purwaka Caruban Nagari)などの史料を重視する研究では、ファラテハンないしファディラ・ハンをスナン・グヌン・ジャティとは別人とする説が提示されている。近年の研究論文でも、ファラテハン、タグリル(Tagaril)、ジャヤカルタなどの人物・名称をめぐる同定について、ホセイン・ジャヤディニングラット以後の研究史と史料の再検討が行われている[2]。

したがって、ファタヒラを「スナン・グヌン・ジャティと同一人物」と単純に断定することはできず、どの史料を基礎とするかによって人物像の復元が異なる。現在のジャカルタの公的な歴史叙述ではファタヒラを1527年のスンダ・クラパ占領者として扱っているが、人物の系譜や名称の同定については研究上の論争が残されている[3]。

顕彰

ファタヒラの名は、ジャカルタの旧市街に残る歴史的景観の中で広く用いられている。旧バタヴィア市庁舎を利用するジャカルタ歴史博物館は、現在ではファタヒラ博物館(インドネシア語: Museum Fatahillah)とも呼ばれ、その前面にある広場はファタヒラ広場と呼ばれている[6]。

ファタヒラ広場は、かつてバタヴィアの市庁舎前広場であった場所であり、1973年に現在の名称となった。ジャカルタ歴史博物館の建物自体は、オランダ東インド会社統治下のバタヴィアにおける市庁舎として1707年から1710年に建設されたものであり、ファタヒラ本人が活動した16世紀の建築物ではない[6][5]。

関連項目

脚注

参考文献

外部リンク

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