フアン・ビジョーロ
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1956年、メキシコシティに生まれる。父親はスペインバルセロナ出身の哲学者ルイス・ビジョーロ、母親はユカタン州出身の精神分析学者のエステラ・ルイス=ミランである。ドイツ系の学校で教育を受けた後、メトロポリタナ・ウニダー・イスタパラパ自治大学 (UAM-I) にて社会学の学士号を取得する。1976年からの一年間、メキシコ国立芸術院 (INBAL) の奨学生として文芸コースに参加し、グアテマラ人作家で短編の名手であるアウグスト・モンテローソに師事した。モンテローソは、のち1980年に出版社ホアキン・モルティス社(Editorial Joaquín Mortiz)から発行されたビジョーロの初短編集La noche navegableの原稿を同社に推薦した人物でもある[1]。
1977年から1981年にかけて文化や教育番組に特化したラジオ局ラディオ・エドゥカシオンにて番組制作、脚本執筆を担当した後、1981年に在ドイツ民主共和国 (東ドイツ) メキシコ大使館の文化担当官に任命され、1984年の帰国まで外交官として同地に在住する。
作家としては、1991年スペインの大手出版社アルファグアラ社から出版された長編小説El disparo de argónが評価され、93年にはドイツ語翻訳が発表される。1995年から1998年にかけて、メキシコの全国紙の一つである『ラ・ホルナダ紙』が週刊する文化増刊『ラ・ホルナダ・セマナル』の編集長を務める。またその傍ら、国立芸術院(INBAL) やメキシコ国立自治大学 (UNAM) などで文芸創作の教室やコースを担当した[2]。
1999年発表の短編集La casa pierdeでメキシコの権威ある文学賞ハビエル・ビジャウルティア賞を、そして2004年発行の長編El testigoでエラルデ賞を受賞する。以降、小説のみにとどまらず評論集、児童文学、ドイツおよび英米文学の翻訳など多様なジャンルの作品を発表し、多くの文学賞を受賞し続けている。2014年2月25日にはそれまでの功績が認められメキシコ国立学士院であるエル・コレヒオ・ナシオナルの新会員として認定された[3]。
ビジョーロはまた、『エル・パイス (El País)』『レフォルマ (Reforma)』『プロセソ (Proceso)』『ラ・ホルナーダ (La Jornada)』『レトラス・リブレス (Letras Libres)』『ネクソス (Nexos)』等のスペイン語圏の多くの新聞や雑誌に精力的に寄稿している。2000年代に入ってからは、演劇の分野でも脚本家や劇作家として活動をはじめ、2008年に『部分的な死 (Muerte parcial)』、2011年には『人生の哲学 (Filosofía de vida)』が上演され、2016年には一人芝居『雨についての講演 (Conferencia sobre la lluvia)』が日本でも公演された[4]。
メキシコ国立自治大学(UNAM)の文学部教授として教鞭を取ったこともあり、またこれまでイェール大学、ボストン大学、プリンストン大学、バルセロナのポンペウ・ファブラ大学に客員教授として招聘されている[5]。
人物
幼少の頃から大のサッカーファンであり、FCバルセロナの熱心なサポーターであることを公言している。子どものときには、『プーマス(Pumas)』の呼称でも知られるメキシコシティのサッカーチーム『クラブ・ウニベルシダ・ナシオナル』の下部組織に所属していたが16歳でチームを去っている[6]。サッカー関連の記事を多くの媒体に寄稿し、『神は丸い (Dios es redondo)』(2006年)、『イダ・イ・ブエルタ (Ida y vuelta)』(2012)、『こぼれ球(Balón dividido)』(2014年)の3冊のサッカー関連書籍を出版している。
また音楽愛好家、特にロックファンして知られている。自身の作品の多くで実在するバンドやロック界の伝説的な人物について言及しており、2012年発表の小説『岩礁 (Arrecife)』では主人公とその親友を元ロックミュージシャンとして描いている。本人があるイベントで語ったところによると、音楽好きの母親の影響で子どもの頃からロックを聴き始め、とりわけ60年代70年代の同ジャンルに親しんでいった[7]。1977年から1981年に脚本制作を担当していたラディオ・エドゥカシオンのラジオ音楽番組”El lado oscuro de la luna (『月の暗い面』)”では、当時まだメキシコ国内でレコードが入手しづらかった海外ロックの楽曲を積極的に放送した[8]。