1810年頃、日本人によって製作される[7]。
1822年、アメリカ人船長Samuel Barrett Edesが、日本人船員からこの“人魚”を購入、船の必要経費から6000ドルを支出したとバーナムは記述するが[8][9]、異聞ではアメリカ人の捕鯨船操業者がオランダ領インドネシアのバタヴィアにて5000ドルで購入したとされている[10][7]。
(この点については、長崎出島のオランダ商館に1820–1829年まで滞在し荷倉役をつとめたヨハネス・フレデリック・ファン・オーフェルメール・フィッセル(Johan Gerard Frederik van Overmeer Fisscher、 1800–1848)-->の著書『日本風俗備考』における証言が参考となる。フィッセルによれば、こしらえた人魚は工房から 30両(theilen)すなわち60グルデン(オランダ語では「フルデン」と発音)で買えるが、バタヴィアでは 2000スペインドル(オランダ語版)で転売できると知った。その儲け話にあやかろうと興味を見せたところ、二頭人や腹に顔がある人、悪魔の頭をした人、双頭竜などを見せられた。これをいくつか見繕って、のちにデン・ハーグ市にある自宅のキャビネットに飾ったとしている[11])。
同1822年、Mirror紙に広告が打たれ、人魚はロンドンで展示される[8]。
イーディス船長の息子に“人魚”が譲渡されると、ボストン・ミュージアムのM. キンボールに売却された(1842年)[8]。
同年夏、P・T・バーナムに見せるためニューヨークに持っていかれる。バーナムは、人魚の信ぴょう性は保証できないとする博物学者の鑑定を得ていた[12]。にもかかわらず、バーナムはこれでミュージアムに客を呼べると信じた。キンボールは依然として“人魚”の単独所有者だったので、バーナムは週当たり12ドル50セントで借り受けた。
ニューヨークの新聞各紙に「Dr. J. Griffinが南米で捕獲した」と強く主張する匿名の手紙を送り、この物体を宣伝した。実際にはグリフィン博士は、バーナムの仲間のLevi Lymanがなりすましたキャラクターだった[14]。
バーナムは1842年、「バーナムのアメリカ博物館」でこれを展示する。アメリカ博物館の売り上げは1万2341ドルと、前月の1272ドルを大きく上回った[15]。
南部の州で少しの間展示されたのち、続く20年間はキンボール(ボストン)とバーナム(ニューヨーク)の博物館で交互に展示される。1859年6月、ボストンに移動。“人魚”がどこにあったか確実にわかっている最後の日付である。一説に、1865年にバーナムの博物館が火災に遭ったとき焼失したというが、これはありそうもない。このとき“人魚”はボストンにあった。おそらく、1880年代初頭にキンボールの博物館の火災で失われた[7]。