サラトフで生まれた。仕立て屋として働らき、18歳になった1855年になって画家をめざして、サンクトペテルブルクの帝国美術アカデミーに入学した。帝国美術アカデミーで当初は聴講生として絵画を学び、後にカール・ティモレオン・フォン・ネフ(Carl Timoleon von Neff)やフョードル・ブルーニ(Fyodor Bruni)の指導を受けた[3]。在学中の1858年、1860年、1862年にアカデミーの展覧会で入賞した。
1863年の秋に「移動派」の指導者になるイワン・クラムスコイ(1837-1887)らとともにアカデミーの方針に反抗してアカデミーを退学した「14人の蜂起(Бунт четырнадцати)」のメンバーの一人となった。
クラムスキー、ヨハン・ゴットリープ・ヴェーニヒ、アレクサンドル・コンスタンチノヴィチ・グリゴリエフ、アレクセイ・イヴァノヴィチ・コルスーヒン、ニコライ・セミョーノヴィチ・シュストフらと共にサンクトペテルブルク芸術家協会(Санкт-Петербургская артельхудожников)を結成した[4]。
1866年と1871年から1872年にかけて、帝立芸術家奨励協会(Императорское общество поощрения художников)の絵画教室で教えた[2]。1868年にロシア芸術アカデミーの国際美術展に出品し、一級芸術家の称号を受け、1874年に、ロシア芸術アカデミーの会員に選ばれた。
1876年のフィラデルフィア万国博覧会と1889年のパリ万国博覧会の展覧会に出展し、1896年のニジニ・ノヴゴロドで開かれた全ロシア産業手工芸博覧会にも参加した。1888年から1889年の巡回美術展協会(移動派)の展覧会にも出展したが、会員にはならなかった。
ジュラヴリョフは、モスクワの救世主ハリストス大聖堂とリガの救世主生誕大聖堂の装飾画制作にも参加した。サンクトペテルブルクのスパース・ナ・クラヴィー教会(血の上の救世主教会)のモザイク画やスモリヌイ学院のイコンのデザインもした[5]。