フィロメナ (聖人)

From Wikipedia, the free encyclopedia

崇敬する教派 カトリック教会1961年2月14日除外)
記念日 8月11日
聖フィロメナ
聖フィロメナ(Johann Dominik Mahlknecht画、ミュージアム・ゲルディーナ(オルティゼーイ)蔵)
崇敬する教派 カトリック教会1961年2月14日除外)
記念日 8月11日
テンプレートを表示

フィロメナ (Philomena, Filomena) は、かつてカトリック教会で崇敬されていた殉教者とされる人物である。4世紀に殉教した若いギリシャの地方総督の娘であったとする伝承が存在するが、その生涯について確実な同時代史料は確認されていない。

1961年2月14日ローマ教皇庁はフィロメナの名前をすべての典礼暦から外すよう命じた[1]

フィロメナに対する崇敬は、プリシラのカタコンベでの殉教者であると解釈された少女の遺骨の発見後である19世紀初期に始まった。フィロメナについての詳細は何も知られていなかったが、墓で見つかったラテン語の銘により、聖人の名前がフィルメナ(フィロメナ)であるとされた。

亡骸は1805年にムニャーノ・デル・カルディナーレに移されて崇敬の的となり、広く評判となった1935年の尊者ポリーヌ・ジャリコーの治癒を含む幾つかの奇蹟がフィロメナの取り次ぎによると信じられた。聖ジャン=マリー・ヴィアンネ神父は、他の人が彼に帰した特別な治癒をフィロメナに帰した。

フィロメナの生涯と殉教の詳細は、ナポリ修道女の幻視を元にして広まった。それは以下のようなものである。

3世紀前後、ローマ皇帝ディオクレティアヌスキリスト教徒を激しく迫害していたが、同じ頃、信仰に篤いフィロメナは聖アグネスの幻視を受け、自分の運命を知った。皇帝の結婚の申し出を拒んだフィロメナは投獄され、槍で突かれたり、矢で射抜かれたり、むち打ちを受けたり、水に沈められたりしたが、天使の助けによって奇跡的に死を免れた。最後はキリスト教徒の数が海の砂ほど多くなるのを預言し、首を刎ねられて殉教した。斬り落とされた首は微笑みを浮かべ、後光が取り巻いていたと言われている。

全世界で使われるローマ典礼暦にフィロメナの祝日は含まれなかったが、1837年以降は一部の場所で認可された。1920年の典型的なローマ典礼書には、ミサ典礼が用いられる場所が殉教した乙女が一般的であり、聖人に適当な者がいない箇所であるという指示と共に、8月11日にフィロメナに対する言及がある[2]

しかし1961年2月14日ローマ教皇庁はフィロメナの名前をすべての典礼暦から外すよう命じた[1]。したがって、自発教令「スンモールヌム・ポンティフィクム」によりローマ典礼の特別な方式として使われている1962年版のローマ典礼書は、フィロメナについて触れていない。

生涯

フィロメナについては、確実な同時代史料による生涯の記録は存在しない。1802年にローマのプリスキラのカタコンベで若年女性の遺骨が発見されたことが崇敬の起点とされるが、彼女の出自や殉教の経緯などの詳細は後世の伝承に基づくものであり、歴史的事実として確認されているわけではない。[3] 発見された墓には「Pax tecum Filumena」と読まれる碑文があったとされるが、碑文の配置や解釈については異論もあり、当該遺骨が実在の殉教者フィロメナ本人であると断定することはできないとする見解も示されている。[3]

墓碑銘の解釈

プリスキラのカタコンベで発見された墓にあったとされる「Pax tecum Filumena」という銘文については、遺骨と碑文の対応関係を巡って議論がある。カタコンベにおける当時の埋葬慣行では、碑文や装飾が必ずしも特定の遺体と厳密に対応していない場合もあり、この銘文のみをもって当該遺骨をフィロメナ本人と断定することはできないとする見解が示されている。[3]

崇敬

19世紀前半以降、イタリアを中心にフィロメナへの崇敬が広まり、特にムニャーノ・デル・カルディナーレにおいて信仰が定着した。こうした崇敬の拡大は、当時の信仰的熱意や奇跡譚の流布と密接に関係しているとされる。[3]

歴史的評価

フィロメナに関する生涯や殉教の詳細については、殉教録(acta martyrum)や同時代の史料が存在せず、歴史学的にはその実在性を確認することはできないとされている。一方で、19世紀にフィロメナへの崇敬が広く受容された事実自体は史料により確認されており、近代カトリック史における信心の展開として位置づけられている。[3]

近代カトリック信心史における位置づけ

典礼暦における扱い

脚注

Related Articles

Wikiwand AI