フェリクス・ヴァンケル
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履歴
ドイツ、バーデン大公国のラールで林務官の息子として生まれる。幼い頃から機械に興味を持っていたが、高等学校では商業を学ぶ。1921年に卒業し、19歳で就いた職業はハイデルベルグで科学書を出版する会社のセールスマンであった[1]。
22歳で機械加工の工場を立ち上げ、シリンダーの研削加工などを手掛ける傍ら、内燃機関の改良について考える。1924年には早くも回転ピストン機関の構想をスケッチとして残しているが、実現するまでの道のりはまだ遥かに遠かった[1]。
1926年には高圧潤滑装置とシール機構の専門家となり、ピストンエンジンのシリンダのシールの改良に取り組んだ。1929年から1931年までロータリー弁のシールの実験と特許出願を行っている。1933年にはわずか1年足らずではあるが、ダイムラー・ベンツと手を組んでロータリーバルブやシールの研究を行っており、続いてBMWとも提携して研究を行った[2]。ヴァンケルエンジンとロータリー弁には回転体の気密と摺動の確保という要素技術が共通している。
ドイツ軍との仕事
1936年、ヴァンケルの業績を耳にしたドイツ航空省がベルリンのドイツ航空研究所(DVL)に招聘を試みた。ベルリンに移りたくなかったヴァンケルはヘルマン・ゲーリングと交渉し、ボーデン湖畔リンダウにヴァンケル研究所(WVW)を設立。ドイツ空軍航空機用のダイムラー・ベンツ DB 601の吸排気弁をロータリー弁に変更した試作エンジンの開発を行った。また、ユンカースもヴァンケルのロータリー弁を使用し、コンパクトなバルブ機構を生かしてドイツ海軍の魚雷用エンジンのユモKM8に採用したほか、アウトウニオンやNSUとも契約を結んでいる[2]。
ヴァンケル研究所は1945年の敗戦によって解体され、ヴァンケル自身は1946年まで連合国によって数ヶ月間フランスで投獄された[2]。
戦後の研究再開
戦後、彼の研究結果は接収され、新規の研究も禁止されたが、1951年早くもリンダウに技術開発研究所(TES)を開設した。設立にあたってヴィルヘルム・ケプラーの援助を受けたという。ここでピストンリングの研究を行い、NSUはレース用オートバイのバルブ機構へのロータリー弁の採用で契約を締結。NSUとの関係を深めることになる[3]。
NSUはヴァンケルの開発したトロコイド式ロータリーピストン型コンプレッサーを過給機として使用し、1956年に1.6馬力の50ccエンジンから13馬力を引き出した。このエンジンを搭載したオートバイ「フライングハンモック」はレコードブレイカーとして時速195.2kmの速度記録を樹立した[3]。
ヴァンケルエンジンの開発
ヴァンケルはNSU用に開発していた圧縮機にキャブレターと点火装置を取り付け、4サイクル機関を開発しようと考えた。そこでNSUの技術者の協力を仰ぎ、1954年に回転ピストン機関の共同研究契約を締結[4]。後にNSU-ヴァンケルエンジンと呼ばれる原動機の開発に着手した。最初の試作機は後年のものとは異なる自転ピストン機関のDKM54で、排気量は54㏄。内側のローターだけでなくハウジング(外ローター)も回転するものであった。このエンジンは1957年2月1日に初運転が行われた。[3][5]
1957年には125ccのDKM-125が製作されて、28.4馬力/17,000rpmを得るに至った。しかし、外ローターが回転する方式は構造が複雑になり、冷却面でも問題があった。そのため、NSUのバルター・フレーデ博士( Dr. Walter G. Froede)がハウジングを固定し内ローターだけが回転する公転ピストン機関を考案。この方式の新エンジン、KKM-125が試作された。続いて250ccのKKM-250が試作され、1959年から1960年にかけて1,000時間の耐久試験が実施された[6]。
このKKM-250は四輪乗用車のNSU・プリンツに搭載されて公道での走行テストが行われた[7]。こうして1960年、公転ピストンエンジンがヴァンケル・エンジンと名付けられ世に発表された。
ライセンスの供与
ヴァンケルとNSUが開発したヴァンケル・エンジンはニュージャージー州のカーチス・ライトにライセンスが与えられた。試作機段階のヴァンケルロータリーは、エンジンシリンダー内部にできる「チャターマーク」と呼ばれる引っかき傷のような特殊な磨耗を解決できず、長時間運転すると壊れてしまう、実用上は不完全なエンジンであった。後に、NSUからこのエンジンの技術ライセンスを得たマツダがこの問題を解消し、ロータリーエンジンとしてマツダのコスモスポーツに初搭載された。
- 供与先
| 21.10.1958 | カーチス・ライト | アメリカ | 制限無し、シリーズ無し |
| 29.12.1960 | フィッテル&ザックス | 西ドイツ | 産業用と船舶、0.5 - 30 PS |
| 25.02.1961 | ヤンマーディーゼル | 日本 | ガソリンとディーゼルエンジン、1 - 100 PS、1 - 300 PS |
| 27.02.1961 | 東洋工業 (マツダ) | 日本 | ガソリン 1 - 200 PS 自動車 |
| 04.10.1961 | クロックナー・フンボルト・ドイツ | 西ドイツ | ディーゼルエンジン制限無し |
| 26.10.1961 | ダイムラー・ベンツ | 西ドイツ | ガソリン 50 PS 以上 |
| 30.10.1961 | MAN | 西ドイツ | ディーゼルエンジン制限無し |
| 02.11.1961 | クルップ | 西ドイツ | ディーゼルエンジン制限無し |
| 12.03.1964 | ダイムラー・ベンツ | 西ドイツ | ディーゼルエンジン制限無し |
| 15.04.1964 | アルファロメオ | イタリア | ガソリン 50 - 300 PS 乗用車用 |
| 17.02.1965 | ロールス・ロイス | イギリス | ディーゼルとハイブリッド 100 - 850 PS |
| 18.02.1965 | 車両製造工業協会 | 東ドイツ | ガソリン 0.5 - 25 PS and 50 - 150 PS |
| 02.03.1965 | ポルシェ | 西ドイツ | ガソリン 50 - 1000 PS |
| 01.03.1966 | アウトボード・マリン | アメリカ | ガソリン 50 - 400 PS |
| 11.05.1967 | コモトール | ルクセンブルク | ガソリンとディーゼルエンジン 40 - 200 PS |
| 12.09.1967 | グラウプナー | 西ドイツ | 0.1 - 3 PS 模型エンジン、生産は小川精機 |
| 28.08.1969 | Savkel Ltd. | イスラエル | ガソリン 0.5 - 30 PS 産業用 |
| 01.10.1970 | 日産自動車 | 日本 | ガソリン 80 - 120 PS |
| 10.11.1970 | ゼネラルモーターズ | アメリカ | 汎用、航空機用以外 |
| 24.11.1970 | スズキ | 日本 | ガソリン 20 - 60 PS オートバイ用 |
| 25.05.1971 | トヨタ | 日本 | ガソリン 75 - 150 PS |
| 29.11.1971 | フォード・モーター | 西ドイツ | ガソリン 80 - 200 PS (1974 quit) |
| 25.07.1972 | バーミンガム・スモール・アームズ | イギリス | ガソリン 35 - 60 PS for motorcycle |
| 29.09.1972 | ヤマハ発動機 | 日本 | ガソリン 20 - 80 PS オートバイ用 |
| 04.10.1971 | 川崎重工業 | 日本 | ガソリン 20 - 80 PS オートバイ用 |
| 03.02.1973 | アメリカン・モーターズ (AMC) | アメリカ | ガソリン 20 - 200 PS |
晩年
1969年、ミュンヘン工科大学から名誉工学博士号を授与された[8]。晩年は動物の権利と動物実験に対して活動した。ハイデルベルクで86歳で死去した。
