フェルン・アンドラ
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| フェルン・アンドラ Fern Andra | |
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ポストカード(Wolfgang Sauber私蔵) | |
| 本名 | Vernal Edna Andrews |
| 別名義 | Baroness Fern Andra von Weichs |
| 生年月日 | 1893年11月24日 |
| 没年月日 | 1974年2月8日(80歳没) |
| 出生地 |
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| 死没地 |
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| 国籍 |
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| 職業 | 女優、脚本家、映画監督、プロデューサー |
| 活動期間 | 1913 - 1930 |
| 配偶者 |
Friedrich von Weichs男爵(19?? - 1917死別) クルト・プレンツェル(1924 - 19??) イアン・キース(1932 - 1934) General Samuel Edge Dockrell(1938 - 1973死別) |

フェルン・アンドラ(Fern Andra、1893年11月24日 - 1974年2月8日[1])とは、アメリカ合衆国の女優、映画監督、脚本家、プロデューサー。 ヘニー・ポルテン、アスタ・ニールセンに続く、ドイツ・サイレント映画時代の人気女優のひとりだった。
1893年11月24日、イリノイ州ウォツィーカに生まれる。父は電気技師だった[1]ウィリアム・P・アンドリュース、母"セイディ"ことサラ・エミリー・エベット。出生名はヴァーナル・エドナ・アンドリュース(Vernal Edna Andrews)[2]。父方はイングランドとスコットランド、母方はイングランドとドイツの家系。
1898年に父親が亡くなった[2][3]後、母親がヴォードヴィル役者でサーカス芸人のフランク・セントクレアと再婚。義父の指導でフェルンは綱渡りを覚え、リトル・エヴァとしてステージに立った[1]。
綱渡り芸人としてミルマン・トリオ[4]に帯同してアメリカ、ヨーロッパを巡業。1913年からベルリンで映画に出演しはじめる[1]。1915年には自身の映画会社を設立し、映画を製作。そのうち何本かは監督した[5]。
ドイツでは80本近くの映画に関わったが、第一次世界大戦末期にはスパイと疑われ投獄された[1][6]。しかし、フェルンがFriedrich von und zu Weichs男爵(1917年に戦死)の妻だったことと、皇帝ヴィルヘルム2世の介入で釈放された[1]。
戦後の1922年7月4日、「レッド・バロン」として知られる撃墜王マンフレート・フォン・リヒトホーフェンの弟ロタール・フォン・リヒトホーフェンがハンブルクからベルリンへの飛行中、墜落して死亡した。フェルンはその郵便飛行機に同乗していて、当初、死亡と報じられたが[7]、無事だった[6]。1954年、リヒトホーフェンの母親と面会したフェルンは「いつかマンフレート・フォン・リヒトホーフェンの生涯を映画化したい」と母親に語っている[6]。
結婚は4回したが、いずれとの間にも子供はいなかった。