フェレンツィ・カーロイ
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ウィーンで鉄道建設技術者、カレル・フロイント(Karel Freund)の息子に生まれた。父親は鉄道会社とともにブダペストに移ってその功績から、貴族に叙せられ、その時、名前をハンガリー風の、フェレンツィに改めた。
フェレンツィ・カーロイはハンガリーのショプロンの学校を卒業した後、法律を学ぶためにウィーンに移ったが、1884年に結婚することになる14歳年上の従姉の画家、オルガ・フィアルカ(Olga Fialka:1848-1930) に勧められて美術に転じ、1885年にナポリ美術アカデミーに入学した。翌年ミュンヘンに移り、ミュンヘンではホローシ・シモン(Hollósy Simon:1857-1918)やチョーク・イシュトヴァーン(Csók István: 1865-1961)といったハンガリー出身の画家たちと知り合った。1887年から1889年の間はパリのアカデミー・ジュリアンで学んだ。フランスの自然主義の画家、ジュール・バスティアン=ルパージュの作品から大きい影響を受けた[1]。
しばらく多くの芸術家が活動していたハンガリーのセンテンドレで活動した後、1893年に再びミュンヘンに移り、ホローシ・シモンらのグループに加わり、1896年にはホローシ・シモンと現在のルーマニアのバヤ・マレに移って活動した。
1900年にブダペストでの展覧会で評価を高め、ハンガリー美術アカデミーの教授に任じられ、ブダペストで活動し、夏はバヤ・マレで過ごした。1904年に美術家グループ「MIÉNK」(Magyar Impresszionisták és Naturalisták Köre:ハンガリー印象主義・自然主義サークル)の創立メンバーになった[2]
14歳年上の母方のいとこで、画家のオルガ・フィアルカと1884年頃に結婚した。息子たちも版画家や彫刻家になった。