フスロー

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1587年8月16日ムガル帝国の皇帝ジャハーンギールの長男として生まれる。母はアンベール王バグワント・ダースの娘マーン・バーイーである[1]

ジャハーンギールが皇子時代に皇帝アクバルに反乱を起こした際、フスローは有力貴族マーン・シングミールザー・アズィーズ・コーカらによって父に代わる後継者に祭り上げられた。だが、大多数の反対とチャガタイの法と慣習に反対するとの意見もあり、結果としてこれは失敗した[2]

1606年4月6日、フスローは父帝に反乱するために騎兵350騎とともにアーグラを去った[3]。彼はアクバル廟に一旦滞在し、マドゥラーではフサイン・ベグ率いる3000騎が駆けつけた。その後、ラホールへと向かう途中、シク教グル・アルジュンも味方に付き、支援を申し出た[4]

フスローはラホールを包囲したが、間もなくジャハーンギール率いる軍勢が駆けつけ、彼は敗れた[4]。その後、カーブルへ逃げようとしたものの、チェナーブ川を渡河とした際に追手に捕えられ、アーグラへ連行された[4][5]

フスローはジャハーンギールの前に鎖に繋がれたまま引き出され、のち投獄された。また、彼は自分に従った300人が串刺しにされるのを見せつけられた[4]。フサイン・ベグやシク教のグル・アルジュンも殺害された[4][6]

1607年、フスローが獄中で父帝暗殺を企てていたことが判明し、罰として彼は盲目にされた[4]。このとき、父帝はこれを死罪に値すると思っていたが、愛情が邪魔して出来なかったとのちに語っている[4]

フスロー・バーグ

1620年、弟フッラムがデカン遠征に行くときにフスローの引き渡しを求めたため、彼は引き渡された[7]1621年にフッラムがデカン地方で輝かしい勝利を収めたのち、1622年1月16日にフスローはブルハーンプルで殺害された[1][7][8][9]

死後、フスローの遺体はブルハーンプルに埋葬されたのち、母の遺体の眠るアラーハーバードに送られ、母の横に埋葬された[10]。その墓廟のある庭園はフスロー・バーグと呼ばれているようになった[10]

脚注

参考文献

関連項目

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