フランク・西ゴート戦争

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492年–508年
結果

フランク王国の勝利

  • フランク王国(Regnum Francorum)がガリアのほぼ全土を掌握
  • ブルグント王国(Regnum Burgundionum)が弱体化
  • 西ゴート王国(Regnum Gothorum)が東ゴート王国(Regnum Italiae)の支配下に
領土の
変化
フランク王国がガリア・アクィタニアを併合[1]
フランク・西ゴート戦争

第二次フランク・西ゴート戦争時の両軍の行動
492年–508年
場所アクィタニアプロヴァンスブルグンディア
結果

フランク王国の勝利

  • フランク王国(Regnum Francorum)がガリアのほぼ全土を掌握
  • ブルグント王国(Regnum Burgundionum)が弱体化
  • 西ゴート王国(Regnum Gothorum)が東ゴート王国(Regnum Italiae)の支配下に
領土の
変化
フランク王国がガリア・アクィタニアを併合[1]
衝突した勢力
フランク王国 西ゴート王国
アルモリカ
ブルグント王国 (507年以降)
東ローマ帝国
東ゴート王国
ブルグント王国 (507年まで)
アレマン人
指揮官
クローヴィス1世
テウデリク1世
ゴデギセル 処刑
グンドバト (507年以降)
アウレリアヌス
キロ
アラリック2世 
スアトリウス(捕虜)
グンドバト (507年まで)
アリディウス
ゲサリック
テウディス
テオドリック大王

フランク・西ゴート戦争では、492年から508年にかけて、クローヴィス1世率いるフランク王国アラリック2世率いる西ゴート王国が衝突した一連の戦争について述べる。なおこの戦争には、ブルグント王国英語版東ゴート王国東ローマ帝国も関与している。大きく第一次(492年-496年)と第二次(507年-508年)にわかれており、フランク王国が南フランスのほとんどを併合した著名なヴイエの戦いは第二次戦争の戦闘である。

486年、フランク王クローヴィス1世ソワソンの戦いでガリアのローマ人勢力(ソワソン管区)を撃破し、敵将シアグリウスは西ゴートのアラリック2世の宮廷へ亡命した。おそらく487年、クロヴィス1世はヴェルダンパリなど抵抗を続ける土地を蹂躙し、都市を包囲しつつ、西ゴート王国に最後通告を送った。すなわち、シアグリウスを引き渡すか、戦争に訴えるかという選択を迫ったのである。フランク人との戦争に気乗りしなかったアラリック2世はシアグリウスを手放した。クロヴィス1世は、送られてきたシアグリウスを直ちに処刑した[2]

第一次フランク・西ゴート戦争 (492年–496年)

フランク王国の攻勢

491年までに、クロヴィス1世はかつてのローマ領の支配を固め、次の目標としてアラリック2世との戦争を目指し始めた[3]。そして、西ゴート王国領の最北端であるナントを包囲した。ナントは60日間にわたって耐え続け、これに感銘を受けたフランク軍の将軍キロはカトリックに改宗した。この段階でもアラリック2世はクロヴィス1世と衝突するのを嫌がり、支配下のポワチエサントボルドーを包囲されるに任せた。この過程で、西ゴートの有力貴族であったボルドーのスアトリウス公が捕虜になった。クロヴィス1世はボルドーからの帰路で、トゥールも占領した可能性がある[4]

西ゴート王国の反撃

496年、フランク人はトルビアックの戦いアレマン人と衝突し、勝利したものの自身も大打撃をこうむった。同時に国内でも混乱が起きたとみられている。この隙をついて、アラリック2世はすみやかにボルドー、サント、ポワチエを奪回した(トゥールが以前奪われていたとすれば、これも西ゴート王国のもとに戻った)。こうして戦争はほとんどふりだしに戻った[4]が、ナントはアルモリカ人の手に落ちたとみられている[5]

ブルグント内戦 (500年–501年)

第二次フランク・西ゴート戦争 (507年–508年)

脚注

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