フランシス・ラッセル (第2代ベッドフォード伯爵)
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| フランシス・ラッセル Francis Russell | |
|---|---|
| 第2代ベッドフォード伯 | |
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| 在位 | 1555年 - 1585年 |
| 出生 |
1527年ごろ |
| 死去 |
1585年7月28日 |
| 配偶者 | マーガレット・セント=ジョン |
| ブリジット・ハッセー | |
| 子女 | 本文参照 |
| 家名 | ラッセル家 |
| 父親 | 初代ベッドフォード伯ジョン・ラッセル |
| 母親 | アン・サップコート |


第2代ベッドフォード伯フランシス・ラッセル(Francis Russell, 2nd Earl of Bedford, 1527年ごろ - 1585年7月28日)は、バッキンガムシャーのチェニーズおよびデヴォンのエクセターのベッドフォード・ハウスを領した、イングランド貴族、軍人、政治家。デヴォン生まれの船乗りサー・フランシス・ドレークの代父となった。1584年から1585年までデヴォン長官を務めた。
フランシスは、初代ベッドフォード伯ジョン・ラッセルとアン・サップコートの息子である[1]。ケンブリッジ大学キングス・ホールで教育を受け、父に随伴して庶民院議員を務めた。1545年から1547年、そして1547年から1552年にかけて、バッキンガムシャーの議員として議会に出席した。1547年にはベッドフォードシャーおよびバッキンガムシャーの長官に任命された。1549年にはデヴォンで発生した反乱の鎮圧に尽力し、1550年1月に父がベッドフォード伯に叙せられた後、ラッセル卿として知られるようになり、1552年にはこの称号で貴族院議員となった。
フランシスは改革派の意見に共感していた。また、サー・トマス・ワイアットとも交流があったが、その宗教面での言動のためメアリー1世の治世の初めに投獄された。釈放後、イタリアを訪れ、外国の改革派と交流を深めた。また、1557年のサン・カンタンの戦いで、当時イングランド王配であったスペイン王フェリペ2世側としてイングランド軍を率いた[2]。
エリザベス1世
1558年11月、イングランド女王エリザベス1世が即位すると、1555年にベッドフォード伯となっていたフランシスは、公の場で積極的に活動するようになった。枢密顧問官に任命され、フランス王シャルル9世とスコットランド女王メアリーに対する外交使節として派遣された。
1564年2月から1567年10月まで、ベリック総督およびスコットランド東部辺境の守護を務め、その立場でエリザベス1世とメアリーの間の様々な交渉を行った。フランシスは、1566年12月17日にスターリング城で行われたジェームズ王子の洗礼式にエリザベス1世の大使として出席し、その後の晩餐会と仮面劇の主賓となった。スコットランド女王メアリーは、フランシスに真珠、ダイヤモンド、ルビーをちりばめた金の鎖を贈った[3]。洗礼後、メアリーの異父兄である初代マリ伯ジェームズ・ステュアートがフランシスをファイフ地方の旅に連れ出した。フランシスらはセント・アンドリュースと、グランジのウィリアム・カークカルディの邸宅であるホールヤーズを訪れた[4]。
フランシスは有能な国境守護であったようだが、イングランド女王の優柔不断で屈辱的な振る舞いに苛立ちを覚えていた。1569年に北部で反乱が勃発すると、フランシスはウェールズに派遣され、1572年にはノーフォーク公の裁判に臨んだ。
1576年にはウェールズ評議会の議長を務めた。1581年には、エリザベス女王とアンジュー公フランソワの結婚を取り仕切るために派遣された貴族の一人となった。1564年にガーター騎士とされたフランシスは、寛大で人望の厚い人物であったようである。フランシスは1585年7月28日にロンドンで死去し、チェニーズ・マナー・ハウスの隣にあるセント・マイケル教会の家族礼拝堂に埋葬された。チェニーズ・マナー・ハウスはフランシスが主な居城とし、1570年にはエリザベス1世をもてなした一族の地所である。第3代伯爵の地位は、息子フランシス・ラッセルの一人息子である孫のエドワード・ラッセル(1572年 - 1627年)が継承した[5]。