1847年9月1日フランスパリ近郊シャルトル司教区の豪農の家庭に生まれる。サン・シェロンの小神学校、シャルトルの大神学校に学ぶ。1871年(明治4年)司祭叙階。同時に母校の小神学校教授に就任し、8年間ラテン語を教えた。1879年(明治12年)パリ外国宣教会入会。1880年(明治13年)から1912年(明治45年)まで32年間日本に滞在した。来日直後数ケ月日本語を学んだのち、東京築地の神学校校長及びサン・モール会修院付き司祭となった[注釈 1]教会が京橋小田原町に設営した低所得者用病室や目黒のハンセン病病院の患者訪問を日課とした。1889年(明治22年)から5年間週刊雑誌「天主の番兵」を発行した。また、1893年(明治26年)東京帝国大学教授井上哲次郎によるキリスト教排斥論に対抗し『宗教と国家』を著したが内務省指令により発禁処分を受けた。1894年(明治27年)からは雑誌「聲」の編集長に就任。その傍ら、『理想の靑年』、『敎育哲學』など哲学、神学、歴史に関する数十冊の単行本を約15年にわたり発行した。1898年(明治31年)には帝国教育協会に要請され東京市の学校長会で約10回の講演を行った。1906年(明治39年)から6年間、宣教師や修道女の黙想指導を実施。1912年(明治45年)香港のナザレトの家に隠退。司牧の傍ら日本語による著作を発表した。1922年(大正7年)7月25日香港にて死去。香港のパリ外国宣教会経営のベタニア療養所の墓地に埋葬。[1]