フリオ・アルヘンティーノ・ロカ
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| 将校 フリオ・アルヘンティーノ・ロカ Julio Argentino Roca | |
|---|---|
| 第9代、第14代 アルゼンチン大統領 | |
| 任期 1898年10月12日 – 1904年10月11日 | |
| 副大統領 | ノルベルト・キルノ・コスタ |
| 前任者 | ホセ・エバリスト・ウリブル |
| 後任者 | マヌエル・キンターナ |
| 任期 1880年10月12日 – 1886年10月11日 | |
| 副大統領 | フランシスコ・ベルナベ・マデロ |
| 前任者 | ニコラス・アベジャネーダ |
| 後任者 | ミゲル・アンヘル・フアレス |
| 内務大臣 | |
| 任期 1890年8月6日 – 1891年5月1日 | |
| 大統領 | カルロス・ペレグリーニ |
| 前任者 | Salustiano Zavalía |
| 後任者 | José Vicente Zapata |
| 防衛・海軍大臣 | |
| 任期 1878年1月4日 – 1879年10月9日 | |
| 大統領 | ニコラス・アベジャネーダ |
| 前任者 | アドルフォ・アルシナ |
| 後任者 | カルロス・ペレグリーニ |
| 個人情報 | |
| 生誕 | 1843年7月17日 アルゼンチン・サン・ミゲル・デ・トゥクマン |
| 死没 | 1914年10月19日(71歳没) アルゼンチン・ブエノスアイレス |
| 墓地 | ラ・レコレタ墓地 |
| 政党 | 国民自治主義党 |
| 配偶者 | Clara Funes |
| 子供 | フリオ・アルヘンティーノ・パスカル・ロカ Alejandro Roca Elisa Roca María Marcela Roca Clara Roca Agustina Roca Josefina Roca Elena Roca |
| 親 | ホセ・セグンド・ロカ Agustina Paz |
| 親族 | マルコス・パス (叔父) |
| 署名 | |
| 兵役経験 | |
| 所属国 | |
| 所属組織 | |
| 軍歴 | 1856-1880 |
| 最終階級 | |
| 戦闘 | セペダの戦い パヴォンの戦い Battle of Lomas Blancas Battle of Las Playas ウルグアイアナ包囲戦 ヤタイの戦い トゥユティの戦い クルパティの戦い Battle of San Ignacio Battle of Pastos Grandes Battle of Ñaembé Battle of Santa Rosa |
アレホ・フリオ・アルヘンティーノ・ロカ・パス(Alejo Julio Argentino Roca Paz, 1843年7月17日 – 1914年10月19日)は、アルゼンチンの陸軍将軍であり政治家で、1880年から1886年、そして1898年から1904年までの二度にわたりアルゼンチン大統領を務めた。
ロカは「80年世代」を代表する最も重要な人物であり、アルゼンチンの先住民族に対して行われた一連の軍事作戦「砂漠の征服」を指揮したことで知られている。この作戦はしばしばジェノサイド(集団殺害)と見なされることがある。
大統領としての二期の間に多くの重要な変化が起こった。特に、鉄道や港湾施設といった大規模なインフラ整備、外国投資の増加、ヨーロッパからの移民の流入(とりわけ南ヨーロッパからの大規模移民)、農業および牧畜部門の拡大、そして国家権力を強化するための世俗化立法が挙げられる。
ロカの外交政策における最大の関心事は、これまで正確に定められていなかったチリとの国境画定であった。1881年、アルゼンチンはチリとの条約によって領土を獲得した。

ロカは1843年、北西部の都市サン・ミゲル・デ・トゥクマンで地元の有力な一家に生まれた。エントレ・リオス州コンセプシオン・デル・ウルグアイの国立大学(ナショナル・カレッジ)を卒業した。1858年3月19日、15歳になる前にアルゼンチン連邦の軍隊に入隊した。まだ青年期にあったロカは、ブエノスアイレスと内陸諸州との抗争において、若年の砲兵将校として戦闘に参加した。当初は内陸諸州側として、その後は首都側として戦っている。さらに、1865年から1870年にかけてのパラグアイとの三国同盟戦争にも従軍した。ロカは、エントレ・リオス州で起きたリカルド・ロペス・ホルダンの反乱を鎮圧する戦争に従事し、大佐に昇進した。その後、大統領ニコラス・アベジャネーダは、サンタ・ロサの戦いで反乱軍将軍ホセ・M・アレドンドを破り、忠誠派部隊を率いて勝利を収めたロカを将軍に昇進させた。ロカは軍を「国家統一の担い手」と見なしており、軍隊での経験は、アルゼンチンという国家と各州の上層階級に対する彼の理解を広げるものとなった[1]。
政治活動の始まり

1878年、ニコラス・アベジャネーダ大統領の政権下で、ロカは陸軍大臣に就任した。彼に課された任務は、前任者アドルフォ・アルシナの計画が失敗に終わった「砂漠の征服」に終止符を打つための軍事作戦を準備することであった。当時、いくつもの先住民集団が伝統的な居住地を防衛しており、非先住民による辺境の入植地をたびたび襲撃して、馬や牛を奪い、女性や子どもを捕らえて奴隷にしたり、戦士たちの花嫁として差し出したりしていた[2][3]。しかし、パンパ地方の先住民共同体への対処に関するロカの方針は、ブエノスアイレス州全域に溝(壕)と小規模な要塞群からなる防衛線の建設を命じたアルシナのものとは、まったく異なっていた。ロカは、先住民による襲撃(マロン、malones)を終わらせる方法は、リオ・ネグロ川に至るまでのすべての土地を政府の実効支配下に置く軍事作戦――「砂漠の征服」として知られる遠征――によって、その地に住む先住民を「殲滅するか、服従させるか、あるいは追放する」以外にないと考えた。彼はまずランケレス族に対する軍事行動を開始し、その結果、最終的に「国家領土の35%が先住民から地方のカウディーリョ(有力地方指導者)へ移転される」ことになった[4]。この土地征服は、チリに対するアルゼンチンの戦略的地位を強化することにもつながった。
彼は「触手作戦」と呼ばれる戦術を考案し、1878年7月および1879年4月にそれぞれメンドーサ、コルドバ、サンタ・フェ、ブエノスアイレスから約6,000人規模の騎兵部隊を波状的かつ連携して進軍させた。この作戦により、公式記録では先住民約1,313人が殺害され、15,000人が捕虜として拘束されたとされている[5] 。また、この軍事行動によって、数百人に及ぶヨーロッパ系の捕虜が解放されたと評価されている[6]。
第一次政権 (1880–1886)

1879年半ば、アルシナの死後、ロカは国民自治主義党(国民自治党)の中で最も名声の高い指導者となり、コルドバ州知事ミゲル・セルマンから、またブエノスアイレスでは医師エドゥアルド・ウィルデから大統領候補として推され、急速にアルゼンチン各州知事の大多数の支持を獲得した。4月11日に行われた大統領選挙では、ブエノスアイレス州とコリエンテス州を除きロカ支持派が圧勝した。6月13日には選挙人団が招集され、ロカ将軍を大統領に、フランシスコ・ベルナベ・マデーロを副大統領に選出した。しかし、ブエノスアイレスではロカの勝利に反対する革命の動きが高まっていた。4日後に暴動が勃発し、6月25日に州と国家の間で合意が成立して終結した。この1880年革命では約3,000人の死者を出した。大統領就任式の直前ロカはブエノスアイレスの連邦化を議会で成立させた。
ロカの政権下では、いわゆる「世俗化法(ライシスト法、Leyes Laicas)」が制定され、それまで教会の管理下にあった一連の機能が国有化(国家管理化)された。彼はまた、出生・死亡・結婚のすべてを登録する制度である「戸籍登録(Registro Civil)」を創設した。さらにロカ大統領は、教会が運営していた教育機関を国有化することで、初等教育を無償化した。これらの政策はバチカンとの関係断絶を招いた。ロカの治世は大規模なヨーロッパ移民の流入、鉄道建設、そして農産物輸出の急成長に支えられた急速な経済発展の時代でもあった。1886年5月には、ロカは暗殺未遂事件の標的となったが、未遂に終わった。
その後の政治活動

ロカ自身は義理の兄弟にあたるミゲル・アンヘル・フアレスを後継者として推していた。しかし、彼は次第にロカから距離を置くようになり、フアレス政権は最終的にベアリング危機と汚職疑惑によって大きく傷つけられた。
ロカはレアンドロ・N・アレムおよびバルトロメ・ミトレ(市民同盟〈Unión Cívica〉、後の急進市民同盟〈Unión Cívica Radical〉)によって主導された1890年の反フアレス革命未遂には参加しなかった。しかし、その結果としてミゲル・アンヘル・フアレスが弱体化したことについては内心満足していた。
第一次政権後もロカは政界で重要な地位を保ち、カルロス・ペジェグリーニ政権下で上院議員および内務大臣を務めた。1895年1月に大統領ルイス・サエンス・ペーニャが辞任すると、当時上院議長であったロカのもとで、ホセ・エバリスト・ウリブルが大統領に就任した。さらに、ウリブルが病気により職務を果たせなかったため、ロカは1895年10月28日から1896年2月8日まで、再び大統領職の職務を代行することになった。
第二次政権 (1898–1904)

1897年半ば、国民自治党(Partido Autonomista Nacional)は再びロカを大統領候補として擁立した。対立候補がいなかったためロカは1898年10月12日に二度目となる正規の大統領任期を開始することができた。第二次政権下では、「居住法((西: Ley de Residencia))」が制定され、アルゼンチンにとって危険と見なされた、外国籍のアナーキストや社会主義者である労働組合指導者の一部を国外追放することが可能となった[7]。
この政権期には1901年に兵役制度が導入され、1902年には「五月協定」の締結によってチリとの国境紛争が解決された。また、その象徴としてアンデスのキリスト像が建立されたが、この事業にはロカの愛人ギジェルミナ・オリベイラ・セサルの姉妹であるアンヘラ・デ・オリベイラ・セサル・デ・コスタの重要な支援があった[8]。
ロカ政権下で外相を務めたルイス・マリア・ドラゴは1902年に「ドラゴ主義」を提唱し、外国勢力が武力行使や領土占領によって主権を有するアメリカ大陸の国家から公的債務を取り立てることはできないと主張した。この時期、アルゼンチンの対外債務は増加したものの、経済成長は継続していた。しかし、ロカは政治的支配を引き続き維持することができず、事実上後継者を指名することもできなかった。1904年に終わったロカの第二次政権は第一次政権と比べて成功度は低かったと評価されている[9]。
晩年

1912年、ロカは大統領ロケ・サエンス・ペーニャによってアルゼンチンの対ブラジル特命大使に任命された。ロカは1914年にアルゼンチンへ帰国し、同年10月19日にブエノスアイレスで死去した。遺体はブエノスアイレスのラ・レコレタ墓地に埋葬された。
彼の息子であるフリオ・アルヘンティーノ・パスカル・ロカは、1932年から1938年までアルゼンチンの副大統領を務めた。
功績
ロカの思想は、「可能な共和国(república posible)」という概念をめぐるフアン・バウティスタ・アルベルディの考え方と結び付けて論じられてきた。これは共和政体を採りつつ自由権・経済的自由権を広く認める一方で、政治生活への参加は支配階級層に限定されるとするものである。この「可能な共和国」は最終的には完全に民主主義的な性格を持つ「真の共和国」へと移行していくものと構想されていた[10]。政治的に保守主義的な路線を特徴とする「可能な共和国」という理想は、80年世代内部の人々を含めさまざまな反対勢力が生まれる要因となった政治的対立の一因でもあった[11]。
20世紀を通じてロカは近代アルゼンチン共和国の基盤を築いた政治家の一人として認識されてきた。そのため国内各地(都市、県、湖、通り、大通り、広場、記念碑、公園、学校、鉄道路線など)で彼の名が付けられて顕彰されている。その例としては、リオネグロ州の都市ヘネラル・ロカ、チャコ州の町プレシデンシア・ロカ、サンタフェ州の町プレシデンテ・ロカ、エントレ・リオス州のコロニア・ロカ、コルドバ州のヘネラル・ロカ県などが挙げられる。ブエノスアイレス市では、主要幹線道路および鉄道の支線に彼の名が冠されており、1941年には騎馬像も建立された。
近年、アルゼンチン史におけるロカの位置づけ、とりわけ「砂漠の征服」への関与について再評価が進んでいる[12]。いくつかの団体はロカがアルゼンチン先住民に対してジェノサイドを行ったと主張している[13][14][15][16]。ロカをジェノサイドの加害者と見なす人々は、彼を称えて名付けられた場所や地域から「ロカ」という名称を撤去することを提案している[17][18][19]。
書籍
- Carlos Pellegrini and the Crisis of the Argentine Elites, 1880-1916, by Douglas W. Richmond (1989).
- Soy Roca, by Félix Luna (1989).