フリッツ・ガイェウフスキー
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フリッツ・ガイェウフスキー Fritz Gajewski Ph.D | |
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米陸軍が撮影した逮捕後のマグショット | |
| 生誕 |
フリードリヒ・ガイェウフスキー Freidrich Gajewski 1885年10月13日 |
| 死没 |
1965年12月2日(80歳没) |
| 国籍 | ドイツ |
| 出身校 | ライプツィヒ大学 |
| 職業 | 企業役員 |
| 雇用者 | IG ファルベン |
| 政党 | NSDAP |
| 罪名 | 戦争犯罪(IGファルベン裁判) |
| 刑罰 | 無罪 |
| 配偶者 | Elisabeth Seckler |
フリードリヒ・ガイェウフスキー(ドイツ語: Freidrich Gajewski, 1885年10月13日 - 1965年12月2日)は、ドイツの実業家。IG ファルベンの役員で、第二次世界大戦中には戦争経済指導者(Wehrwirtschaftsführer)を務めた。
1885年10月13日、ガイェウフスキーは12人兄弟の1人として生を受けた。経済的な理由から兄弟全員が進学する事は不可能であったが、その中でガイェウフスキーは薬剤師としての修行を受け、1905年には化学及び薬学について学ぶべくライプツィヒ大学へ入学した。1910年に博士号を修得した後、当時は必須とされていた兵役を果たすべくドイツ帝国陸軍に入隊する[1]。1912年には民間企業BASFにて雇用されるも、1914年に第一次世界大戦が勃発した為に陸軍へ戻り、1917年まで従軍した[1]。その後、ルートヴィヒスハーフェンにあるBASFガス部門の幹部となった。またこの頃に結婚しており、後に2人の娘が生まれた[1]。
IGファルベンでのキャリア
ナチ政権下
1933年、ガイェウフスキーは国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)に入党する[1]。1938年、水晶の夜事件の後にガイェウフスキーはIGファルベンの元同僚らと共にNSDAPが主張する世界観の支持を表明した。1930年代初頭に取締役会の一員だったユダヤ人のゲアハルト・オーレンドルフ(Gerhard Ollendorf)はNSDAPによる迫害を恐れており、1938年11月にガイェウフスキーと会った際にドイツから逃れようとしている旨を話したという。ガイェウフスキーは幸運を祈ると言ってオーレンドルフを見送ったが、直後にゲシュタポに宛てて「彼は機密情報を所持したまま逃亡しようとしている可能性がある」という手紙を書いている。これによってオーレンドルフの出国は足止めされたが、結局ガイェウフスキーが折れた事でオーレンドルフは無事にドイツ出国を果たしている[2]。
1940年にIGファルベンの南東欧委員会の委員となり、ハンガリーやチェコスロバキア、ルーマニアなどの占領地及び衛星国のIGファルベンの支社や子会社をたびたび訪問した。1942年、戦争経済指導者(Wehrwirtschaftsführer)に就任する[1]。