フロラン・ド・エノー
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フロランは、エノー伯ジャン1世とアーデルハイト・フォン・ホラントの次男である。
フロランは、1285年にシニー伯に招かれ、トルヴェールジャック・ブルテルが詩に著した『ショーヴァンシー馬上槍試合』の登場人物の一人である。
従兄弟のホラント伯フロラン5世のためゼーラント総督を務めた[1]。1287年末、シチリア王国で一旗揚げるためネーデルラントを離れ、ナポリ王カルロ2世に仕え、ナポリ軍総司令官となった[2]。
1289年9月16日、アカイア公女でギヨーム2世・ド・ヴィルアルドゥアンとアンナ・コムネナ・ドゥカイナの娘であり、フィリップ・ダンジュー(1256年 - 1277年)の未亡人イザベル・ド・ヴィルアルドゥアン(1312年没)と結婚した。モレア年代記の版により、この結婚の正確な状況が異なっており、ギリシャ版ではフロランおよび公国の貴族ジャン・ショーデロンとジャン・ド・デュルネーがこの結婚を主導したとされ、アラゴン版では公国の摂政でフロランの親戚でもあるアルトワ伯ロベール2世がこの結婚を主導したとされている[2][3]。
夫妻はブリンディジから、武装兵を伴い、ナルジョ・ド・トゥシー率いる船団に乗船し、モレアに向けて出発した[4]。夫妻は(直接、あるいは旧バイイであるギ・ド・シャルピニーを介して)公国の封臣たちから臣下の礼を受けたが、アテネ公国摂政であった公妃ヘレネ・コムネナ・ドゥカイナおよびボドニツァ侯はこれを除外された。これにより、アカイア公国とアテネ公国との間に新たな紛争が始まることとなった[4][5]。
フロランは1290年にビザンツ帝国とクラレンツァ条約を締結した。実際、アンジュー家がシチリア島から駆逐された今、ラテン帝国の再征服とモレアへの増援部隊派遣は幻となった。また、フロランの関心は、公国を破滅に導いている戦争に終止符を打つことにあった。
1291年、フロランはエピロスに赴き、カルロ2世の息子フィリッポとニケフォロス1世の娘タマルとの婚姻交渉を行った[6]。その後まもなく、1291年から1292年にかけて、フロランはビザンツ皇帝アンドロニコス2世の攻撃を受けていたニケフォロス1世を支援した[7]。
ペロポネソス半島の和平は不安定なままで、様々な事件が起こり、1296年に休戦協定が破られた。1293年、ギリシャ軍はカラマタを占領した。フロランはアンドロニコス2世パレオロゴスに抗議の使節を派遣し、要塞はモレアに返還された。1296年、ギリシャの領主がアルカディアの聖ゲオルギオス城を占拠した。フロランは城を包囲したが失敗し、1297年1月にアンドラヴィダで亡くなった。