ブジョノフカ
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ソ連の文献では、ブジョノフカを含む当時の軍装は、1918〜1919年に赤軍のために特別に開発されたものだとされてきた。
しかし1990年代になると、ロシアで別の説が広まった。それによれば、この種の帽子を含む新しい軍装一式は、第一次世界大戦中に、ロシア軍がベルリンやコンスタンティノープルで行うと想定されていた「勝利パレード」のために考案されていたというものである。 この説では、新しい軍装は倉庫に保管され、部隊には支給されなかったが、十月革命後に赤軍兵士の軍服として利用され、ボリシェヴィキがブジョノフカにつけられていた双頭の鷲を五芒星に付け替えただけだとされる。

しかしこの説に関してロシアの軍装の専門家であるキリル・ツィプリョンコフは、いわゆるブジョノフカの起源に関する説について、「全く根拠のない、かなりばかげた神話だ」と述べている。彼によれば、第一次世界大戦という極めて厳しい時期に、ロシア軍のために新しいパレード用の軍服をわざわざ作る必要などなく、戦争直前にすでに別のパレード用の軍服が開発されていたという。
一方、ジャーナリストで作家のボリス・ソペリニャクも、この説について「最も広まっている説の一つだが、一言一句真実ではない」と考えていた。彼は、ソ連時代にもこの説が否定されなかった理由として、労農赤軍の新しい軍服の開発に関するすべての文書や命令には、この軍の事実上の創設者であり、陸海軍人民委員で共和国革命軍事会議議長でもあったトロツキーの署名があったことを挙げている。ソ連では長い間、トロツキーの名前は印刷どころか口にすることすら許されなかったためだという。
軍装の専門家で歴史家のA・B・ステパーノフも、ブジョノフカの1990年代に広まった説には、そもそも文書などの裏付けが一切存在しないと指摘している。
開発
1918年初頭に労農赤軍が創設されたことで、ロシア帝国軍とは異なる、新しい軍服を作る必要が生じた。 このため、 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の人民委員部は、1918年4月25日付命令第306号で赤軍の新しい軍服を作成するための暫定委員会を設置し、5月7日付命令第326号で軍服デザインの公募規定を発表し、さらに5月21日付命令第380号で審査委員会を設置した。
このコンペには、ボリス・クストーディエフ、ミハイル・エズチェフスキー、セルゲイ・アルカージエフスキーなどのロシア人芸術家が参加した。 一部資料では、ロシアの有名画家であるヴィクトル・ヴァスネツォフも参加したとされているが、これを裏付ける証拠は現在まで見つかっていない。
コンペでは、審査委員会が「注目に値する」と認めた作品に賞金が与えられ、さらに最優秀3作品は追加報酬とともに国の所有として人民委員部が買い上げることになっていた。また、ボリス・クストーディエフの娘の回想によれば、 彼は「赤軍の新しい帽子の原型として古いロシアの兜を提案したのは自分だ」と考えており、 その案が採用されたにもかかわらず、自分ではなく他の者が報酬を得たことに不満を抱いていたという。
軍装の研究者であるキリル・ツィプリョンコフは、新しい軍装のイメージを作り上げるうえで決定的な貢献をした芸術家は、1918年にオーストリアの捕虜収容所から帰還したミハイル・エズチェフスキーであったと考えていた。 彼の見解によれば、制服制定委員会の委員長であるM・V・アキーモフによる直接の言及といった公的な資料だけでなく、歴史家のアレクセイ・ステパーノフやコレクターのセルゲイ・ポドスタニツキーが所蔵する、エズチェフスキー本人のスケッチの発見によっても裏付けられている。
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A・B・ステパノフによれば、赤軍の新しい軍服は多くの芸術家たちによる集団的な創作の成果であり、提案された複数のデザイン案をもとに、ブジョノフカを含む新しい赤軍の軍服の最終的なスケッチを描き上げたのは、画家のV・D・バラーノフ=ロッシネであった(彼は労農赤軍の制服制定委員会のメンバーだった)。
1918年12月18日、共和国革命軍事会議は、新しい冬用の帽子として、古いロシアの兜であるエリホンカ(ロシア語版)を思わせる形のフェルト製帽子を採用した。同じ決定により、制服制定委員会は、この新しい帽子を4,000個製造し、部隊へ送るよう命じられた。

その後、この帽子は赤軍の象徴的な装備となり、最初に新制服を受け取った部隊の指揮官である、M・V・フルンゼに由来する「フルンゼフカ」、S・M・ブジョーヌイに由来する「ブジョノフカ」と非公式に呼ばれ後に後者の名称が定着して一般的な呼び名となった(ただし、これはロシア内戦終結後のことである)。 また、ブジョノフカにはあまり好意的でないあだ名もあり、尖った頭頂部の形から避雷針を意味するгромоотвод(グロモオトヴォート)、さらには頭を変な方向に持っていく帽子や頭をおかしくする帽子を意味するумоотвод(ウモオトヴォート)と呼ばれることもあった。
赤軍の使用


1919年1月16日付の共和国革命軍事評議会命令第116号には、以前に採択された決定を確認するとともに、赤軍の新しい冬用帽子について以下の詳細な説明が記されていた。

頭部被服は、頭の形に合わせた、上方に向かって細くなり、兜のような形をした帽体と、折り返される後庇およびひさしから成る。 帽体は、防護色の軍服用サージから作られた、同じ大きさの二等辺球面三角形の6枚の布片で構成され、それらは側辺同士を縫い合わせ、三角形の頂点が帽体の上部中央で一点に集まるようにする。 外側の帽体には、木綿布で作られた内側の帽体が縫い付けられ、その内側には綿入りのキルティング裏地がある。 帽体の前面には、ひさしに対して対称となる位置に、先端を上に向けた五角の星形の色布が縫い付けられる。 星の中央には、規定の型の徽章が取り付けられ、濃い赤色のエナメルが施されている。
冬用の帽子は、厚手の布で作られたヘルメット型の帽子で、内側には綿の裏地が付いていた。前面には縫い目の入った楕円形のひさしが縫い付けられ、後ろには長い端を持つ後垂れがあり、あごの下の2つのボタンで留められた(折りたたんだ状態では、ヘルメットに縫い付けられた布張りのボタンに留められた)。 ひさしの上には、兵科によって色が異なる布製の五芒星が縫い付けられ、その星の先端は直径8.8cm の円周上に配置することが求められていた。
命令第116号では、五芒星とボタンの布張りに使用する布の色として6色が定められた。
布製の星の中央には、赤いエナメルで覆われた銅製の五芒星に、交差した鋤と槌をあしらった金属製の徽章が取り付けられた。この徽章の仕様は、1918年7月29日の人民委員部命令第594号で定められている。
実際には、内戦の状況から、これらの帽子はしばしば手工業的に作られ、規定の型から外れたものも多かった(ブジョノフカには金属製の徽章が付いていないことも珍しくなかった)。また革製のブジョノフカも見られた。
1919年4月8日付の共和国革命軍事評議会命令第628号によって、冬用帽子の構造に改正が加えられ、そのシルエットと布製の五芒星の大きさが変更された。同じ命令によって、兵科ごとに識別標として定められていた布地の色、そして帽子に付ける五芒星の布製星章の色も、再確認された。
1922年2月まで、布製の五芒星は縁から3mm内側を黒い縁取り(黒い星の場合は赤い縁取り)で囲むこととされ、その縁取りの幅は5〜6mmでなければならなかった。
1919年4月から1922年2月まで、もともと冬用として使用されていたブジョノフカは、1年を通して使用されるの制帽として扱われていた。
その他にロシア内戦中に赤軍に存在した第195エイスク歩兵連隊の名誉赤軍兵士としてレーニンに贈られたブジョノフカも存在する。
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1922年1月31日の共和国革命軍事会議の命令第322号により、従来の制帽に代わって、全兵科で上記のとは別の夏用ブジョノフカが導入された。 この夏用ブジョノフカは、亜麻布や薄い綿布の明るい灰色で作られ、冬用のブジョノフカの形を大まかに踏襲していたが、あごの下で留める後ろ側の折り返し部分がなかった。
形状は、ドイツ軍で使用されたピッケルハウベに似ており、前後に2つのひさしがあったため、兵士たちは冗談で「こんにちは・さようなら」と呼んでいた。また、あご紐も付いていた。
しかしこの夏用ブジョノフカは使い勝手が悪く、わずか2年間しか使用されず、1924年5月には制帽に戻された。
一方で冬用のブジョノフカは引き続き使用され、1922年には形が低く丸みを帯びるなどの形状変更が行われ、布の色も濃い灰色に変わった。
ブジョノフカの形状変更に伴い、縫い付けられる星章の基礎円の直径が縮小され(9.5cmまで)、1922年4月13日の共和国革命軍事評議会命令第953号によって、赤軍の帽章も変更された。従来の「鋤と槌」に代わり、共産主義のシンボルである「鎌と槌」が配置されるようになった。
1922年6月には、ブジョノフカがチェーカーの後継組織のである国家政治保安部でも正式に採用された。帽子の色は濃紺色で、暗緑色の布製星章が付けられていた。1923年4月以降、濃紺のブジョノフカに付く星章は、赤軍と同じく国家政治保安部でも部門などによって色が分かれ、管理部や参謀部などは黒地に白い縁取り、国家政治保安部の部隊は灰色、護送警備は青色となった。国家政治保安部の一部として再編された国境警備隊では、緑色の布製星章が付けられた。同時期、短期間ではあるが、制帽の代わりに夏用ブジョノフカも導入された。
さらに、1923年2月28日の命令により、国家政治保安部の交通部門では冬季用の帽子として、黒い布地に深紅色の星章を付けたブジョノフカが支給された。1924年8月には、交通部門と国境警備を除くすべての国家政治保安部の機関・部隊に、暗灰色の冬用ブジョノフカと臙脂色の星章が制定された。
1926年8月2日のソ連革命軍事評議会命令第415号により、ブジョノフカに縫い付けられていた布製の五芒星は廃止され、赤軍の金属製の徽章を庇から7cmの位置に直接取り付けることが定められた。しかし同年10月には布製星章が復活し、1927年9月3日の命令第474号によって、布製星章が正式に戻された。
1927年、新型の冬用ブジョノフカが導入された。これは1922年ものに比べて形が少し変更され、1925〜1926年の改良点も取り入れられていたが、色は従来どおりの濃い灰色のままだった。また、前面に付ける星章の基礎円の直径は8cmになった。
1931年には再び構造が変更され、ブジョノフカの上部は6枚の布ではなく4枚の布で作られるようになった。さらに、後ろの垂れには灰色の綿フランネル製の布が付けられた。
このブジョノフカの後ろ垂れは、寒い時には下ろして顎の下で2つのボタンで留め、耳や首を覆うことができた。しかし1932年11月以降は、気温が−6℃以下の場合にのみ下ろすことが規定された。
1935年末、 内務人民委員部ほ部隊では、冬季の高級・上級・中級指揮官用の帽子として「フィンカ帽」が導入された。これは毛皮襟付きのラグランコート着用時にのみ使用することとされ、それ以外にも冬季は制帽(フラジカ)を着用した。一方、下級指揮官と兵には従来どおり濃灰色のブジョノフカが使用され、前面の布製星章は内部警備では臙脂色、国境警備では薄緑色だった。その上に赤いエナメルで覆われた金属製の五芒星が取り付けられた。
1935年12月からは、赤軍空軍の指揮官・幹部の冬用ブジョノフカは濃紺色に、また自動車・戦車部隊では鋼色のものが使用されるようになった。

さまざまな型や改良型があるブジョノフカは、1940年代初頭まで労農赤軍の部隊で使用されていた。 また、ロシア内戦期には、ソ連の民警(ミリツィア)の制服にも一時期、冬用のブジョノフカが含まれていた。1920年12月15日の命令に従い、労農民警の識別標識として、軍用型のブジョノフカには臙脂色の布で作られた盾形の布片が縫い付けられ、その上に民警の徽章が取り付けられていた。
1940年、ソ連国防人民委員の命令により、冬季用の頭部装備としてブジョノフカに代わり、兵士への支給品としてウシャンカ帽が採用された。 これは、フィンランドとの間に起こった冬戦争で、現地の環境にブジョノフカが適しておらず、頭部を十分に保護できないことが明らかになったためである。 さらに、ブジョノフカは鉄帽との併用にも適していなかった。しかし一部の前線部隊では1942年の春まで使用が続き、後方部隊、学校、特別学校、パルチザン部隊などでは、1944〜1945年頃まで使用されていた。

