ブライラ
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| ブライラ Brăila | |
|---|---|
ブライラのマリア・フィロッティ劇場 | |
| 位置 | |
![]() ブライラの位置 | |
| 位置 | |
| 座標 : 北緯45度16分09.1秒 東経27度57分26.9秒 / 北緯45.269194度 東経27.957472度 | |
| 行政 | |
| 国 | |
| 県 | ブライラ県 |
| 市 | ブライラ |
| 市長 | アウレル・ガブリエル・シミオネスク(Aurel Gabriel Simionescu) |
| 地理 | |
| 面積 | |
| 市域 | 33.2 km2 |
| 人口 | |
| 人口 | (2007年現在) |
| 市域 | 210,400人 |
| 人口密度 | 6,497人/km2 |
| 都市圏 | 600,000人 |
| その他 | |
| 等時帯 | 東ヨーロッパ時間 (UTC+2) |
| 夏時間 | 東ヨーロッパ夏時間 (UTC+3) |
| 公式ウェブサイト : https://www.primariabraila.ro/ | |
ブライラ (ルーマニア語:Brăila、ブルガリア語: Браила、トルコ語: Ibrail)は、ルーマニア東部ブライラ県の県都。ムンテニア地方に属し、ドナウ河岸港を持つ。ドナウ川を挟みガラツィと近接する。


ワラキアにおいてドナウ左岸のこの地に定住地が現れたのは、スペインで1350年頃に書かれた『リブロ・デ・コノスシミエント』(Libro de conoscimiento、知識の本)においてスペイン語の市名ドリナゴ(Drinago)と記載された時である。また、14世紀にカタルーニャで書かれた航海図にも登場した。これは、ブリラゴ(Brillago)を間違って翻訳したものであろう。当時のギリシャ語での雑な文書では、市はプロイラブム(Proilabum)かプロイラヴァ(Proilava)とされている。これはスラヴ語での地名ブライロフ(Brailov)をギリシャ語表示したものである。ドイツ語の文献では、Uebereylと記載されていた。名前の発祥、意味ともに不明である。
カザー(Kaza、オスマン帝国の行政区画)として、町と周辺一帯は1538年-1540年から1829年までオスマン帝国に支配されていた(アッカーマン協定の結果ワラキアへ復帰した)。トルコ時代の呼び名は、ウブライル(Ibrail)かウブライラ(Ibraila)であった。モルダヴィア公シュテファン3世(シュテファン大公)によって1470年2月2日、町は攻撃され、略奪され、火を放たれた。これは、オスマン帝国と同盟関係にあったワラキア公ラドゥ美男公(en)に対する報復のためであった。1595年から1596年にかけては、事実上ワラキア公ミハイ勇敢公の支配下にあった。
19世紀、ブライラの川港は、ワラキア内にある川港としてトゥルヌ・マグレレとジュルジュに並ぶ重要港となった。ブライラの偉大な繁栄の時代は、19世紀終わりから20世紀初頭にかけてで、ルーマニアへ商品の多くが集まり国内へ運ばれていく重要港であった。
1989年のルーマニア革命の後、ブライラの経済衰退の時代は終わりを告げた。
経済
中小規模の船が航行可能で、ブライラは規模の大きな穀物運搬と備蓄施設をもつ。重要な産業都市であり、金属加工、繊維業、食品加工などが行われている。
