ブランシュ・モニエ

25年間監禁されていたフランスの女性 From Wikipedia, the free encyclopedia

ブランシュ・モニエ(Blanche Monnier,1849年3月1日1913年10月13日)は、フランス・ポワチエ生まれのソーシャライトである。フランスでは、la Séquestrée de Poitiers(意訳では「ポアチエの監禁女性」)として知られている[1][2]

死没 1913年10月13日(1913-10-13)(64歳没)
フランスブロワ
概要 ブランシュ・モニエ, 生誕 ...
ブランシュ・モニエ
救出後間もない時期のブランシュ・モニエ、1901年。
生誕 (1849-03-01) 1849年3月1日
フランスポワチエ
死没 1913年10月13日(1913-10-13)(64歳没)
フランスブロワ
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美貌に恵まれ、パリ社交界の花形として知られていたとされる[3]。しかし、母親の意向に沿わない結婚を望んだことなどが原因となって、1876年から25年間日の当たらない自邸の屋根裏部屋に監禁されていた[2][4]。1901年、匿名での手紙による告発で監禁の事実が発覚して救出された[3]。しかし、長期間劣悪な環境での生活を強いられたことで肉体的にも精神的にも衰弱し、正気を取り戻さないままで1913年に死去した[5]アンドレ・ジッドは彼女の事件を題材として『La Séquestrée de Poitiers』(1930年)を発表している[2][6]

だが、近年の研究により、これまで語られていた事の多くが疑問視されており、この事件の真相が追究されている。

経緯

一般的に広く流布されている話は以下のとおりである。

1849年、ポアチエの生まれ[7]。モニエ家は貴族の流れを汲む古来からの名家で、兄マルセルと彼女との2人兄妹であった[7]。美貌に恵まれ、成長するとパリ社交界の花形として知られるようになった[3]

ブランシュの美貌は多くの求婚者を惹きつけ、母ルイーズは裕福な男性との結婚を強く望むようになった[3]。しかし1876年、27歳となったブランシュは年上の貧しい弁護士ヴィクトル・カルメイユとの結婚を希望した[3]。母は「文無しの弁護士」との結婚は認めないと主張し、2人は激しく衝突した[3]。結婚を反対される動機として、カルメイユはプロテスタント共和派の弁護士であり、カトリック教徒で熱心な王党派であったモニエ家との対立もあったとされる[8]

ルイーズはブランシュの反抗を封じる手段として、自邸の屋根裏部屋に監禁した[2]。この部屋は狭い上に、陽射しが射し込むことさえなかった[6]。ルイーズと兄マルセルは表向きにはブランシュの失踪を嘆くふりをして周囲を欺いた[3]。そしてブランシュが結婚を希望したカルメイユは、彼女の行方を知らされないままで1885年に急死した[3]

ブランシュは暗くて狭い屋根裏部屋に監禁され、飢餓状態で過ごすことを強いられた[6]。屋根裏部屋は残飯と自らの排泄物などで腐敗し、悪臭が漂う中で虫が走り回るありさまだった[6][3]。彼女はやせ細り、体重は辛うじて25キログラム程度であった[2][9][10]

事件が発覚したのは1901年のことであった[2][6][3]。この年の5月23日、司法長官あてに匿名の手紙が届いた[6]。その内容はおおよそ次のようなものであった[6]

司法長官様、重大な事件について謹んでお知らせいたします。ある未婚女性がモニエ夫人の家で25年にわたって監禁されています。その女性は飢餓状態であり、腐敗して悪臭を放つゴミの中で、自らの汚物にまみれて辛うじて生きています[3]

捜査の結果、ブランシュは救出された[6]。そして悲惨な状況が明らかになった[6]。捜査に立ち会った警官の1人は、次のように証言した[6]

「この不運な女性は、腐った藁の敷物の上で全裸で横たわっていた。彼女の周囲には排泄物や肉、野菜、魚や腐ったパンなどが固まって堆積していた。ベッド周りには牡蠣の貝殻が散乱し、害虫が走り回っていた。部屋の空気は悪臭のために耐えがたく、そこに長くとどまって調査を続行できないほどであった[3]。」

母ルイーズと兄マルセルは逮捕された[6]。逮捕後、ルイーズは病気となり15日後に死去した[3][6]。マルセルは有罪判決を受けたが、妹への配慮を示した書簡の存在に加えて、非干渉主義と悪臭に対する常軌を逸した嗜好などの精神障害などによって後に無罪となった[9][11][6]

救出後のブランシュは、精神的にも肉体的にも衰弱しきっていた[2][3]神経性食欲不振症統合失調症などと診断され、ブロアの精神病院で療養を続けた[5]。この病院内で彼女は1913年10月13日に死去した[5][12]

事件の真相と究明

アンドレ・ジッドは重罪院で裁かれる犯罪事件に関心を寄せていて、その裁判経過を記録するかたちのノンフィクションを数編執筆している[2]。ジッドはブランシュの事件も題材として扱い、『La Séquestrée de Poitiers』(1930年)を発表した[2][6]。作品中で彼女は「メラニー」、兄マルセルは「ピエール」、母ルイーズは「バスティアン・ド・シャルトルー」という仮名で呼ばれている[2][6]

今日、この事件に関する話のほぼすべてが、上記のジッドの語りに基づいている[13]。しかし、彼女が監禁されるに至った理由として広く語られている「家族が反対する恋愛関係」の物語については、1901年6月16日の新聞によって「匿名の手紙による告発を受けて警察が捜査をしたところ、手紙の通りの状況下にあった女性を保護した」と、詳細な内容が挿絵と共に報道され[13]、そのあまりの内容に世間が衝撃を受けた後に、共和派と王党派の対立が特に激化していた当時の政治状況において、日刊紙がこのニュースを巧みに利用したものであるとされる[13]

ブランシュの求婚相手である弁護士が実在の人物だった可能性はあるが、この事件における彼の役割はメディアによって誇張された可能性が高い[13]

またジッドの記述に関しても、当時のブルジョワジーの主義主張を批判するためにこの事件が用いられた面があり、中立性に疑問が残ると、ポワティエの法学・社会科学部の教授であるジャン=マリー・オーギュスタンは著書『La véritable histoire de la séquestrée de Poitiers』(2001年)にて指摘している[14][15]。事件記録が県立公文書館から紛失していたため、彼は新聞記事とマルセル・モニエの弁護士であるバルビエ弁護士の訴状に基づいて、裁判で提示された証拠を精査し、「強制監禁」はモニエ家の習慣慣習、そして使用人たちの証言などによって、より複雑な事情があったと主張している[15][16]

作家のヴィヴィアン・ジャヌアンは、ブランシュが秘密の結婚で弁護士の子供を産み、ルイーズがプロテスタントの私生児という存在に激怒し子供を消して庭に埋めたと示唆している[13][17]が、これにもオーギュスタンは異議を唱えている。

その後、この事件を扱ったクリステル・シャベール脚本・監督による、創作を交えたドキュメンタリー風作品 『 La séquestrée de Poitiers』(2015年)が発表されている[18][19]

また、ブランシュの若い頃の写真として巷で引用されている女性の画像に関しては、花を抱えた女性のものは1910年代にアメリカで流行した髪型[20]をしたものであり、少なくともブランシュの若い頃と年代も国も一致しない。これは1914年に撮影された、ブランシュとは関係のないヴィンテージのポストカードのものであるとされる[21]。もしくはアメリカの女優Maude Fealyのものが誤って引用されている。

現在ブランシュの写真として残っているものは、『L'Illustration』誌の第3040号、1901年6月1日に掲載されたオテル・デュー病院に到着した際のものと、『La Vie Illustree』誌の140号、1901年6月21日に掲載された、頭を剃った後の彼女を撮影した2枚のみである[22]

現在の歴史家の調査によると、最も可能性の高い説として、ブランシュが精神的および心理的な障害を元々患っていたというものが挙げられる[23][24]

ブランシュの父であるシャルル=エミール・モニエは、かつてポワティエ大学文学部の学部長を務めており、兄マルセルは道徳騎士団の時代に副知事を務めていた[25]。モニエ夫妻は、ブランシュを自宅で介護するほうが彼女のために良いと考えたのか、あるいは家族の名誉と評判を傷つけられることを恐れたのか、彼女を精神病院に入院させることを拒否したと推測している(当時は家族に精神疾患を抱える者がいることは大きな恥とされていた)[13][16]

いくつかの記述によると、ブランシュは成長するにつれてキリスト教の神秘主義に魅了されるようになり、修道女になりたいという願望に加え、神と直接話せると信じていたらしい[13][26]。彼女は孤独を強く求めて寝室で過ごすようになり、やがて宗教的な断食から拒食症へと陥っていったと考えられる[26]。ルイーズは警察に対し、「娘を深く愛しているが、娘が23歳のときに精神状態が著しく悪化した」と語っている[23]

1872年、23歳になったブランシュは熱を出し、一次的に寝たきりとなった。病気は治ったものの、この一件で家族は彼女が狂ってしまったと主張した。本当に熱が原因なのか、それともその前後で悪化していた症状を家族が熱と結びつけて考えたのかは定かではないが、この頃からブランシュは服を着ることを拒否し始めた。彼女は屋根裏部屋の窓辺に裸で立ち、通行人や近所の人々が彼女の姿を目撃するようになった。これが窓を板で塞いだ理由だとされている[13][26]。 このブランシュが閉じ込められていた「屋根裏部屋」の記述に関しては、古いフランス建築の「Chambre de bonne」という、ブルジョワ家庭の住み込みの家政婦のために設けられている部屋の翻訳であり、ニュアンスの違いに留意が必要である[13]。父親のシャルルはブランシュの監禁を十分に承知し、容認していた可能性が非常に高い。ポワティエの住民はブランシュが引っ越したか亡くなったと思い込み、やがて彼女について尋ねるのをやめたという[27]

裁判と証言

ブランシュはずっと部屋に閉じ込められていたわけではなかったとされる。彼女は家の他の場所に行くことができ、しばらくの間ピアノを弾き続けていた。さらに、彼女の世話をするために主な介護者として雇ったマリー・ファジーという看護師が20年間、怒りのあまり失禁したり、服を破いたり、物を壊すブランシュの世話をし、入浴の介助と部屋の掃除をしていたと証言された。このマリーという女性はブランシュの親友でもあり、同じベッドで寝るほど親密だったとされる。別の情報源では、マリーはアルコール中毒でボロボロだったという[13]。このマリーが1896年に亡くなったことにより、発覚するまでの5年間で事態は急激に悪化していったとされる[26][27]

兄マルセルはブランシュを精神病院に入院させることを提言したが、母ルイーズが頑なにそれを拒否した[13]。マルセルは裁判で、「1882年に父親が亡くなった後、自分が何度も(自宅での療養を)反対したにもかかわらず、母は亡くなった夫の遺言に反するとして、ブランシュを病院に行かせることを断固として拒否した」と証言した[13][26]。父シャルルは、死後、彼女のために財産を残さず、精神病院で治療を受けさせることも許さなかった。その上で、マリーの死後ルイーズが適切な介護者を雇わず、娘の世話をしようとしなかったため、ブランシュは悲惨な状態に陥っていったとされる[13][26]

また、マルセルは、ルイーズが家計を管理していることを嘆き、「もし自分が母親に逆らっていたら、家族は貧困に陥っていたかもしれない」と主張した。彼は妹のためにできる限りのことをしたと主張し、定期的に妹の部屋に入って新聞を読んであげていたとも述べた[13]。 ブランシュが置かれていた劣悪な環境について問われた際には、「極度の近視で、嗅覚がない」と主張した[15]。そのため、部屋の惨状を全く認識していなかったと弁明した。ただし、妹の助けを求める声が聞こえなかったのかということについては何も言及しなかった[13]。バルビエ弁護士は、依頼人であるマルセルを「完全な白痴で、視力、嗅覚、そして高度な能力のそれぞれ10分の1しか持っていない」と主張したが、これはブランシュが監禁される前から彼にも精神異常があったと人々に信じさせるための方便であるとされ、法学博士であり元副知事であるマルセルの人物像として疑問を抱かせるものとなっている[28]

警察の尋問中、マルセルはブランシュの監禁を支持し、「彼女は下品で、怒りっぽく、興奮しすぎていて、激怒していた」と大声で語ったとされるが、これは(監禁されている状態に対しての怒りや悲しみの発露のことを抜きにしても)警察や医師によるブランシュの説明とは一致しなかった。警官がブランシュを発見したとき、彼女は衰弱し、怯え、ほとんど話すことができなかった。病院に到着すると、ブランシュは入浴や食事の介助を行う医療関係者に感謝の意を示し、清潔になり、新鮮な空気を吸い、再び太陽の光を見ることができた喜びを表明した。ブランシュを担当したスタッフや医師たちによれば、彼女は穏やかで、決して怒りの発作を起こさなかったとされ、徐々に言葉を取り戻し、鳥や花、見慣れた物を認識し始めたという。「なんて素敵なの」とブランシュは新しい環境に感動したとされる[13]。彼女は果物、特にイチゴを美味しそうに食べ、介護者たちと喜んで分け合ったと言われている[15]

かかりつけ医たちはブランシュを「不治の」病人だと診断し、使用人たちは介護をしても無意味だったと証言している[13]。モニエ夫妻は娘の治療を全く試みなかったわけではなく、ブランシュが最初に病気になったとき、モニエ夫妻は彼女をかかりつけ医のゲリノー医師に診せた。彼が最初にブランシュを「不治の精神病」と診断し、1882年にゲリノー医師が亡くなった後、シェドヴェルニュ医師が後を引き継ぎ、彼もまたブランシュを不治の精神病と診断した。シェドヴェルニュ医師は法廷での陳述で、「ブランシュを最後に見たのは1896年で、その時彼女は47歳だった」と主張した(これは警察が彼女を救出する5年前のことである)。3人目で最後のかかりつけ医であるシロン医師に関しては、ブランシュを診断する機会がなかった。彼はブランシュに会ったことがないだけでなく、「ルイーズ・モニエに娘がいたことさえ知らなかった」と法廷で述べた[13]

使用人たち周囲の者はブランシュの泣き声によって何が起きているのかに気づいていたが、ルイーズへの服従、ブランシュが狂っているという思い込み、あるいは監禁の共犯者として逮捕されることへの恐怖を理由に、黙認してこの状況を放置していた。彼らは、屋根裏部屋のひどい状態に慣れてしまっただけであったと認めた。最後に雇われたメイドであるジュリエット・ドゥピュイとウジェーヌ・タボーの2人を含め、後から来た者たちによれば、部屋は「自分たちが着いたときにはもうああいう状態だった」と主張されていた[13]

最初の裁判では、兄マルセルに1901年10月11日にポワティエ矯正裁判所から、暴力行為への共謀罪で15か月の禁固刑が言い渡された。これは、1810年の刑法には「危険にさらされている人を助けなかった」という救助義務の概念が存在しなかったためである[13]。判決が法廷で読み上げられた直後、マルセルと弁護士は判決を不服として控訴した。彼らは、マルセルはモニエ家の正当な所有者でも保護者でもなかったため、犯罪の責任はないと主張した[27]。公式には、事件発覚当時ブランシュと共に家に住んでいた家族は母であるルイーズだけで、マルセルは隣の家に住んでいた[23]。が、マルセルは実家を頻繁に訪れていることが知られている[26]。しかし控訴は認められ、彼の責任は、母親による家庭生活の過度な支配によるものとして軽減された。彼は1か月後の1901年11月の控訴審で無罪となった。この2度目の裁判は、不作為の罪に関するもので、ブランシュが精神障害を患っていたことが明らかにされた[13][25]

ブランシュが屋根裏部屋から救出された後、専門家は次のように診断した。

・神経性食欲不振症:低体重と食事制限を特徴とする摂食障害。

・統合失調症:精神病症状、妄想、幻覚、思考障害を特徴とする疾患。

露出症:特に公共の場で、自分の性器を他人に露出させたいという衝動。

糞便愛好症:糞便から性的興奮や快感を得る性的倒錯。

このうちの「糞便愛好症(コプロフィリア)」に関して、長期間独房に閉じ込められている人物は、感覚刺激がないため排泄物で遊んだり自傷行為をするといった行動に走ることがある点が歴史家で教授のジェシー・ヒューイットによって指摘されている[13]。ただし、この当時の診断にどこまで正確性があるのかは判断しがたく、現代から当時の人物の病状を正しく診断することも困難である。

地元住民の中には、女性が警察を呼んでいるのを聞いたと証言する者もいた。ある目撃者は、ブランシュが「ああ神様、いつになったら私を解放してくれるの? なぜ私はここに閉じ込められているの? 私は地獄の苦しみを受けている」と泣き叫ぶのを聞いたと断言した。しかし、これらの証言は非常に疑わしいと言える[13]

裁判において、被害者であるブランシュ本人が証言できる状態になかったこと、事件以前から健康状態が悪化していた母ルイーズが逮捕直後に亡くなっていること、過剰に誇張された報道と、それによって世間の怒りが兄マルセルに集中したことを踏まえ[27]、発言された証言が記録となっている点には考慮するべきである。ブランシュに会ったこともないのに新聞記事を書いている記者や評論家たちの言うことだけでなく、弁護士や医師やブランシュの家族、使用人たちの証言の信用性も低いということが、この事件のより一層の複雑さを招いている。

裁判の終結後の経緯として、ブランシュは発見後、数週間にわたりオテル・デュー病院で修道女たちの治療を受け、その後パリ南部のブロワにある精神病院に移送された。その頃には、彼女は可能な限り回復していたとされ、その後も生涯を同病院で過ごし、1913年10月13日、64歳で亡くなった[27]。マルセルは母親の遺産(ヴィジタシオン通り21番地の家を除く)をすべて売却し、ピレネー=アトランティック県のシブールに隠居した。彼はミニェに別荘を所有し、ブランシュと同年の1913年6月にそこで亡くなった[25]

内部告発の手紙が誰によるものだったのかは今なお議論されているが、当時は多くの人々が兄であるマルセルによるものだと考えていた。しかし、手紙の文面が法廷での供述と異なっていることや、事件が明るみに出たことで彼自身や彼の妻と娘にも影響が及んでいる(娘は婚約破棄となり、後に身の安全のため妻と共に修道院に向かっている)ことから、可能性は低いとされる。手紙にブランシュが「25年間」放置されていたと書かれていることから、いつからブランシュが劣悪な環境下にあったのかを把握していない時期に雇われたモニエ家の使用人とつながりのある(メイドたちと関係があったことが知られている兵士のような)部外者によって書かれた可能性が高いと考えられている[13]

脚注

外部リンク

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