1949年、バーナッキは、マーク・ヤング総督が提唱した政治制度改革案「ヤング・プラン」の議論の最中、非華人系居民を中心とする政治団体「香港革新会(中国語版)」を設立した。1952年、戦後初の市政局選挙に同会を代表して出馬し、その後、公職生活のほとんどを同職で過ごした[1]。
バーナッキの指導下で、同会は草の根政治に参加し、中国大陸で成立した共産党政権から何千人もの難民が香港に押し寄せる中、すべての人に公営住宅を提供するよう訴えた。彼は歯に衣着せぬ物言いで評判になった[1]。例えば、彼は財政司フィリップ・ハッドン=ケイヴ(英語版)卿と彼の「積極的不介入」に反対し、彼が遅れに遅れている住宅計画への支出を削減したことを批判した[2]。また、薬物乱用者更生援護協会(Society for the Aid and Rehabilitation of Drug Abusers、香港戒毒會)や刑務所出所者援護協会(Discharged Prisoners Aid Society、香港善導會(中国語版))など、さまざまな団体の設立も支援した[1]。
1965年には、その公共に対する奉仕に対して大英帝国勲章 (OBE)が授与された[3]。
彼と同じく革新会の市政局議員で著名な社会活動家であったエルシー・エリオット(英語版)の二人は、1966年のスターフェリー暴動の後、抗議者たちの代弁者として暴動に間接的に関与したとして、ともに取り調べを受けた[4]。また、会長としての独裁的なスタイルも批判された。エリオットは、1966年5月にロンドンに自称代表団を派遣したことで、バーナッキから厳しい叱責を受け、離党することとなる[5]。
バーナッキは、1967年の六七暴動の際には植民地政府を珍しく支持し、徹底的な弾圧を支持した[6]。
バーナッキはまた、1950年代から香港の政治制度改革を主導してきた一人でもあった。1978年、彼はデイヴィッド・オーウェン外務大臣に宛てて、香港人の半数、18歳から34歳の62%が立法局における「選挙による代表制を積極的に望んでいる」と書いた。彼は本国政府に対し、「もし今、民衆の声に耳を傾けなければ」、「騒乱」が起こるかもしれないと警告した。この警告は政府からはほとんど注目されなかった[7]。
バーナッキは、制限された選挙権に対する不満の高まりと、政庁が民選ポストを増やそうとしないのを見て、1979年の市政局選挙をボイコットすることをちらつかせた。その後、政庁は普通選挙の公約を撤回したため、1981年に「これ以上関わりたくない」と辞任した。彼はまた、「わずか6,000人の有権者から選ばれただけなのに、どうして香港の600万人近くを代表していると言えるのか」とも問いかけた[8]。それにもかかわらず、彼は次の選挙(中国語版)で再び革新会を率いた。議席を獲得することはできなかったが、1983年(中国語版)に返り咲いた。1986年の選挙(中国語版)では筲箕湾選挙区で文理書院(香港)(中国語版)校長の張慧冰に33票差で敗れ再び議席を失ったが、1989年(中国語版)に再び返り咲いた[1]。また、1988年東区区議会選挙(中国語版)においても、柴湾北(中国語版)選挙区の現職区議員であった唐楚彦と、左派の鍾樹根(中国語版)とを下して当選している。
1994年には、北京の香港事務顧問に任命された2人の外国人のうちの1人となった[1]。植民地支配の最後の数年間、政治改革と選挙政治が急速に発展するなか、バーナッキは1995年に市政局からの引退を表明し、市政局がますます政治化しつつあることを訴えた。