プテリアの戦い
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時紀元前547年秋
場所カッパドキア、プテリア
(現在の
トルコ、ヨズガト県、ケルケネス(en:Kerkenes))
北緯39度55分00秒 東経35度20分00秒 / 北緯39.9167度 東経35.3333度座標: 北緯39度55分00秒 東経35度20分00秒 / 北緯39.9167度 東経35.3333度
(現在の
北緯39度55分00秒 東経35度20分00秒 / 北緯39.9167度 東経35.3333度座標: 北緯39度55分00秒 東経35度20分00秒 / 北緯39.9167度 東経35.3333度
発端リュディアのプテリア侵攻。
結果
引き分け(決着つかず)
| プテリアの戦い Battle of Pteria | |||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| キュロス2世のリュディア遠征中 | |||||||||
| |||||||||
| 衝突した勢力 | |||||||||
| リュディア王国 | アケメネス朝 | ||||||||
| 指揮官 | |||||||||
| クロイソス(リュディア王) | キュロス2世 | ||||||||
| 戦力 | |||||||||
| 95,000[1] | 20,000[2] | ||||||||
| 被害者数 | |||||||||
| 甚大 | 甚大 | ||||||||
プテリアの戦い(古代ギリシア語: Πτερία)紀元前547年に、キュロス大王のペルシャ軍とクロイソスのリュディア軍の間で戦われた戦闘である。決定的な勝敗のつかぬまま両軍はその大きな犠牲に苛まれた。

キュロスによるの突然の蜂起(ペルシア反乱)、そしてそれによる長年の宿敵たりしメディアの滅亡(紀元前550年)を聞知したクロイソスは、このことを版図の東方拡大のために[3]利用せんと考え、カルデア(当時の王はナボニドゥス)、エジプト(第26王朝、当時の王はイアフメス2世)やスパルタを初めとするギリシアの諸都市国家と同盟を結んだ[4]。クロイソスは侵攻に先立ち、デルファイの神託に助言を求めたとされ、信託は「クロイソス王がハリュス川(現クズルウルマク川)を渡れば、(キュロスの)大帝国が滅びるだろう」と示唆したという[5]。
クロイソスはこの言葉を好意的に受け止め、戦争を開始することにしたが、皮肉にも最終的にはキュロスのでなく自分の帝国を滅ぼすことになる[5]。クロイソスはカッパドキアの侵略を劈頭に遠征を開始、信託の通りハリュスを渡河し、当時一帯の中心地で要塞として機能していたプテリアを占領した[6]。プテリアの住民は奴隷にされたという[7]。
これを受け、キュロスはリディアの侵攻を食い止めるべく軍を進めた[8]。そしてメソポタミア北部を勢力下に加え、途中アルメニア、カッパドキア、キリキア[注釈 1]の自発的な降伏を受け入れた[8]。なお、クロイソスがアケメネス朝攻撃を決意したのにはメディアとその運命を共にした義兄弟のアステュアゲス[注釈 2]の弔い合戦をするためであったとする説もある[3]。