プブリウス・ルティリウス・ルプス
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経歴
ルプスは紀元前90年に氏族としては二人目の執政官に就任するが[1]、それ以前の経歴は不明である。しかしウィッリウス法の規定から逆算して、遅くとも紀元前93年にはプラエトル(法務官)を務めたはずである[4]。同僚執政官はパトリキ(貴族)のルキウス・ユリウス・カエサルであった[5]。
執政官選挙後の紀元前91年末、イタリア内のローマの同盟都市が反乱を起こした(同盟市戦争)。このため、両執政官の主たる任務は、この戦争でローマ軍の司令官を務めることであった。ルプスは北方を担当することとなった[6]。アッピアノスはルプスの下で戦った将軍たちを列挙している。ガイウス・マリウス、クィントゥス・セルウィリウス・カエピオ、ガイウス・ペルペルナ、グナエウス・ポンペイウス・ストラボ、ウァレリウス・メッサッラの名前が挙げられている[7]。一方で南方を担当したカエサル隷下の将軍たちは、ルキウス・コルネリウス・スッラ、ティトゥス・ディディウス、プブリウス・リキニウス・クラッスス、マルクス・クラウディウス・マルケッルスといった名前が並ぶ。この顔ぶれは当時のローマの政局を反映しており、マリウス派がルプスの下に集まり、反マリウス派がカエサルの下に集ったのであろう[8]。
ただし、ルプスと隷下の将軍たちの関係は良くなかった[9]。ルプスは最も有能な軍人であるマリウスの助言に従わなかった。ルプスは徴集された新兵たちを野営地で訓練することを望まず、直ちに敵に向かわせた。ペルペルナが率いた部隊はマルシ人に敗北した。この敗北の後、ルプスはペルペルナを解任した[10]。ルプスは軍をアルバ・フセンスの街に移動させたが、途中トレン川でティトゥス・ウェティス・スカトが率いるマルシ軍の待ち伏せ攻撃を受けた。マルシ軍はローマ軍に橋をわたらせ、その直後に攻撃をかけて川に追い落とした。多くのノビレス(新貴族)も含め、8,000人が戦死した[11]。ルプス自身も頭に矢を受けて負傷し、ほどなく死亡した[12][13]。オウィディウスによると、戦闘があったのは6月10日であった[14]。
戦死したルプスと貴族たちの葬儀がローマで行われたが、これは市民の落胆を引き起こした。元老院はそれ以来、戦死者は戦場近くに埋葬するように決定した[12][15]。