プラセンシア
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| 州 | |
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| 県 | |
| 面積 | 218 km² |
| 標高 | 430m |
| 人口 | 40,892 人 (2014年) |
| 人口密度 | 187.58 人/km² |
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北緯40度01分39秒 西経06度05分27秒 / 北緯40.02750度 西経6.09083度座標: 北緯40度01分39秒 西経06度05分27秒 / 北緯40.02750度 西経6.09083度
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プラセンシア(西: Plasencia)は、スペイン・エストレマドゥーラ州カセレス県北部のムニシピオ(基礎自治体)。サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路に含まれる、ビア・デ・ラ・プラタ(銀の道)途上にある。
歴史

カスティーリャ王アルフォンソ8世は、1186年にイエルテ川岸の都市要塞(植民と、王国の南西国境地帯の防衛を目的とした)としてプラセンシアをつくった。1196年、ヤアクーブ・マンスール率いるムーア軍によって落とされ、一年後にカスティーリャが奪還した。1198年以降ある城壁は7つの塔、8つの門、最北端にある最も高いアルカサル(天守)を誇る。1941年に集合住宅群へ向かう道を造るために壊されたアルカサルを除いて、城壁のほとんどが残っている。旧市街の見どころは、800年以上後も残るプラサ・マヨールの市場である。市ができたときから毎週火曜日に行われる、無税の市場である。この市場を開く権利は、カスティーリャ王からその他の特権と自治権を授けられたときからあるものである。
アルフォンソ8世の要請によって1189年、プラセンシアはローマ教皇クレメンス3世により司教座都市となり、そのすぐ後にロマネスク様式の大聖堂兼摂が始まった。工事が終わったのは18世紀で、建築様式の流行は変わりゴシック様式の要素が身廊へのアーチ、南側出入り口のバラ窓、城壁と接する東側回廊に付け加えられた。
結果に全く満足しなかった15世紀の司教座は、古い大聖堂を廃して同じ場所にゴシック様式の大聖堂を建てることにした。工事は1498年に始まり、16世紀には当時のルネサンス要素が東入口や聖歌隊席に付け足された。一方で地元プラセンシアのプラテレスコ様式も付け加えられた。18世紀まで工事は続き、新大聖堂の内陣と交差廊だけが終わったところで、奇妙な結果を残し計画が放棄されてしまった。
プラセンシアは長く王家の直接支配を受けたが、1442年にフアン2世によって特権を廃された上でスニガ家に与えられた。この措置が地元貴族と多数を占める住民全体の反対を招き、15世紀後半を通じて定期的に反乱が起きた。王家に対するこの反抗的な土地柄から、1475年にプラセンシアで、カスティーリャ女王を僭称したフアナ・ラ・ベルトラネーハ(出自が疑われており、叔母にあたるイサベル王女と王位を争った)が野心的な隣国ポルトガル王アフォンソ5世(フアナの母方の叔父)と結婚式を挙げた。トロの戦いでフアナ・ラ・ベルトラネーハ側が敗退すると、カスティーリャ女王となったイサベル1世はプラセンシア貴族の邸宅の塔を取り払い、彼らに代償を支払わせた。1488年に特権は復活した。しかしコルテスにおいて意見を述べることはできなかった。
経済
プラセンシアはカセレス県北部の事実上の中心地であり、経済活動の63%が商業とサービス業である。