元々はイギリス人入植者のジェームズ・C・ダフ(James C. Duff)、ウィリアム・クリスウェル(William Criswell)、リロイ・クリスウェル(Leroy Criswell)によってマルベリー(Mulberry)と呼ばれていた。なおホッテントットとしても知られていたが、これは地元の無法者集団を指していたと推定されている[1]。
1854年、チェコ系移民のマティアス・ノヴァク(Mathias Novak)が100エーカー(0.4平方キロメートル)の土地を購入し、早朝のミサを執り行う家を建てた。ほかのチェコ系移民も続々と集まり、小さなコミュニティが誕生した。1858年、町は母国のプラハにちなみプラハと名付けられた[1]。
その後数十年かけて、この小さな町はゆっくりと成長した。1865年、シトー会のジョゼフ・ビトフスキー(Joseph Bithowski)神父は小さな木造教会を建て、クリスマスの真夜中に初めてのミサを捧げた。
1868年には公立学校が設立され、1880年代までにはプラハには3つの店、レストラン、そして周辺の町を管轄する教区の中心となる新しい木造教会があった。1884年に郵便局が開設され、1896年にはチェコ・カトリック学校が設立された。
1873年、サザン・パシフィック鉄道が町の1マイル北に線路を敷き、フラトニア(英語版)に駅を開業させると、ビジネスを奪われたプラハは徐々に衰退し始めた。1880年代の最盛期に人口は700人に達したが、20世紀に入る頃には100人を切り、1968 年までに人口は25 人にまで減少した。1906年に郵便局が、1973年に教会学校と公立学校の両方が閉鎖された。21世紀に入っても人口は回復せず、同水準を保っている[1]。
不名誉にも人口に対する第二次世界大戦の戦死者の割合が全米で最も高い町で、1944年には9人が戦死した。町には戦没者を偲び3つの小さな礼拝堂が建てられた[3]。