プレシアン1世
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ビザンツ帝国の資料では、プレシアンはオムルタグの息子ズヴィニツァの息子であったとされる。また、別の研究ではプレシアンは短命の前任者マラミルと同一視され、彼が852年までボリス1世の直接の前任者として統治したとしているが、否定的な意見も多い。なぜならマラミルの後は甥が継承したとされており、ボリス1世の前は父プレシアンが統治していたとされるためである。歴史家ズラタルスキは、マラミルの名のない甥かつ後継者こそがプレシアンであり、その息子がさらなる後継者ボリス1世と結論付けた。
17世紀にヴォルガ・ブルガールについて書かれた『Cäğfär Taríxı』は、真偽が定かではない資料ではあるが、Birdžihan(すなわちプレシアン)をサバンシャ(すなわちズヴィニツァ)の息子であると記しており、現代のブルガリア国内での解釈を支持する根拠のひとつとなっている。
セルビアおよびビザンツ帝国との対立
プレシアンは即位した当時は若く経験不足だった可能性があり、実質的な行政は叔父マラミルの治世でも大臣であるカフハンを務めたイスブルが行っていたとされる。837年、プレシアンの即位直後、テッサロニキ周辺のスラブ人たちがビザンツ帝国に対して反乱を起こした。皇帝テオフィロスは反乱を鎮めるためブルガリアに支援を求めたが、同時に艦隊をドナウ・デルタに向かわせ、クルムとオムルタグの時代にブルガリアに移住させられた捕虜を秘密裏に避難させようと画策した。

この報復として、イスブルはトラキア、マケドニアのエーゲ海沿いに遠征してピリッポイを占領し、現地の教会に記念碑を設置した。なお、この遠征を機にスラブ人の一派スモリャニ族の宗主権を確立したとされる。
プレシアンの治世中、ブルガリアはマケドニアおよびその周辺のスラブ人部族たちに対する支配を拡大した。セルビア人とブルガール人は、839年頃にプレシアンがセルビア領に侵攻するまではビザンツ帝国という共通の敵のもと平和共存していた[1]。セルビア公国のヴラスティミルはいくつかのセルビア部族を統合し[2]、ビザンツ皇帝テオフィロスからセルビア人の独立を勝ち取った[3]。つまり、名目上セルビアはビザンツ帝国の宗主権を認めたことになる[1]。ブルガール人による西マケドニアの併合は、周辺の国際情勢に変化を与えた。マラミルやプレシアンはこのセルビアの統一に危機感を募らせ、スラブ人たちの領域を征服する過程でセルビア人たちを従属させようとしたようである[1]。 別の理由としては、ビザンツ帝国がペロポネソスで起きたスラブ人の反乱に対処しようとしたことから注意を逸らさせようとし、セルビア人を扇動し戦争状態に持ち込ませたかった可能性もある[4]。いずれにしてもプレシアンは[5]839年にセルビアに侵攻し、ブルガリア・セルビア戦争を引き起こしたが、ヴラスティミルに敗北し[6]、 セルビア領から追い出された[4]。領土の獲得に失敗したばかりか、ブルガリア軍は甚大な損失を被った[7]。戦争はテオフィロスの死によって終結し、ヴラスティミルはビザンツ帝国の支配から逸脱した[8]。
852年、プレシアンは死去しボリス1世が後を継いだ。
栄誉
南極大陸にあるサウス・シェトランド諸島、リビングストン島にあるプレシアン・リッジはプレシアンにちなんで名付けられた。