プロイセン・クーデター
From Wikipedia, the free encyclopedia
| プロイセン・クーデター Preußenschlag | |
|---|---|
|
ベルリンの広告塔に掲示された緊急事態宣言 | |
| 場所 |
ベルリン |
| 標的 |
プロイセン自由州 政府閣僚 |
| 日付 | 1932年7月20日 |
| 概要 | フランツ・フォン・パーペン率いる中央政府によるプロイセン自由州政府転覆クーデター事件 |
| 攻撃手段 | 大統領令によってプロイセン自由州政府の閣僚を解任。国軍による閣僚逮捕。 |
| 犯人 | フランツ・フォン・パーペン他 |
| 動機 | アルトナ血の日曜日事件の対応の不備(名目上) |
| 関与者 | ヴァイマル共和国軍 |
プロイセン・クーデター(ドイツ語: Preußenschlag)とは、1932年7月20日に当時のドイツ国首相フランツ・フォン・パーペンによるプロイセン自由州政府転覆を計ったクーデターである。
パーペンの要請により、大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクがヴァイマル憲法第48条第1項を発動して、パーペン自身が国家弁務官に就任し、プロイセン自由州を中央政府の配下に置いた。同日出された2つ目の大統領令で、プロイセンの行政権をパーペン内閣の国防大臣クルト・フォン・シュライヒャー将軍に移譲し、基本的権利を制限した。
1920年代後半から、共和国中央政府とプロイセン自由州の関係は、パーペンが所属していた「ライヒ改革同盟」の議論の対象となっていた。この組織は後の中央政府首相ハンス・ルターが創設したことから、しばしばルター同盟と呼ばれた。このサークルの目的は、中央政府の権限の強化、北ドイツの大半を占めているプロイセンの再編成、権威主義の大統領制の実現であり、プロイセン政府とプロイセン議会に代わって、首相に中央政府直属の国家弁務官を任命する権限を与えるというものであった。プロイセンは、国家全体の利益に反して、邦国として既存の国家構造の中での覇権を追求するものと考えられた[1]。
1928年、中央政府の内閣の閣僚と、すべての地方政府の州首相からなる州会議が開かれ、共和国における帝国と州の関係は不完全であり根本的な改革が必要であり、強い中央権力が必要であるという「共同決議」に至った[2][3]。憲法委員会が任命され、憲法と行政の改革、そして慎重な財政運営に関する実行可能な案が作成された[2]。

1930年6月21日、評価書が提出された。改革案の立案者であり、当時プロイセン首相府長官で、後に緊急政令に対する訴訟でプロイセン政府の主要な政治家となったアルノルト・ブレヒトが示した主要なポイントは、次の4つであった。
- プロイセン州政府の中央行政を、中央政府の行政に統合すること。
- プロイセン州政府の中央当局と中央政府の当局を統合する。
- 国家としてのプロイセン州を消滅させる
ベルリンを含むプロイセン13州を、中央政府の直轄とする[2][4]。
計画に関与したユング。
この改案革には、独立意識の高いバイエルンとプロイセンから反対意見が出された。バイエルンが反対したのは、この改革によって北ドイツが即座に統一され、バイエルン含む南ドイツも連邦制でない統一国家の一部となるのを一時的に猶予されるにすぎないと危惧したためである[5] 。
プロイセン・クーデターのイニシアチブは、「新国家」樹立の計画という文脈で理解されなければならない。この概念は、とりわけヴァルター・ショッテ[注釈 1]とエドガー・ユリウス・ユング[注釈 2]によって広められた。彼らは国家社会主義を支持するのではなく、君主制の先駆けとして、ドイツ帝国憲法下の体制と同様に、大統領の信任に依存する内閣と、権利を厳しく制限された議会を持つ権威主義的な大統領内閣を作ろうとしたのである。ホーエンツォレルン家の王政復古を長期目標に掲げたのである。
プロイセン自由州の情勢

プロイセン自由州は1920年以来、ドイツ社会民主党(SPD)、中央党、ドイツ民主党(DDP)の安定した連立政権によって統治された。しかし1932年4月24日のプロイセン州選挙では、社民党が94議席・中央党が67議席・民主党の後継政党であるドイツ国家党(DStP)が2議席と3党合計しても423議席中163議席(38%)にしかならず敗北。その一方でナチ党(NSDAP)が一挙に162議席(36.3%)を得て第一党に躍り出て、煽りを食って保守反動のドイツ国家人民党(DNVP)が31議席・穏健保守のドイツ人民党(DVP)が7議席と議席を減らす格好となった。更にドイツ共産党(KPD)が57議席と微増し、ナチ党と共産党というヴァイマル共和制に対し特に否定的な二党だけで52%を獲得した。このため左右中道のどの政党も反民主主義政党の支持なしには議会の過半数を占める政府を樹立することはできず、どの政党もそれを受け入れようとはしなかった。そのため、前政権である第3次オットー・ブラウン内閣は正式に退陣した後も、プロイセン自由州憲法第59条に基づく、社会民主党を中心とするオットー・ブラウン暫定政権を維持することになった[6]。ブラウンは1920年から1932年までプロイセンの首相を務め、彼の所属政党である社会民主党の影響は途絶えることはなかった。これらを理由にプロイセンは「赤いプロイセン」と呼ばれるようになり、中央政府との対立は解消されることはなかった。

パーペンとしてはナチ党と国家人民党・人民党(両党合わせて8.4%)更には中央党(15.3%)による安定連立を求めたが、ナチ党は単独政権の樹立を目指しパーペンとは折り合わなかった。1932年6月7日、パーペンには、正式な権限はなかったが、プロイセンの臨時政府を選挙で選ぶよう、ナチ党員で州議会議長のハンス・ケルルに要請したが、交渉がうまくいかず実現しなかった。
このためパーペンは、長い間議論されてきた帝国改革を実行に移し、プロイセンを解体または分割することを目論むことになる。しかし通常の方法でこれを実現するには更なる交渉と調整を要したため、この機会による国家弁務官を任命し、必要であれば国軍の力を借りて新しい秩序を執行することを計画した。
こうした計画には前例があった。社会民主党のフリードリヒ・エーベルト大統領は、1923年の「ドイツの十月」において、帝国執行 [注釈 3]を行ったことがある。ザクセン自由州とテューリンゲン州では、ドイツ共産党(KPD)を含む左派政権が民主的に選出されていたため、両州の平和と秩序が脅かされているとして、政権の強制排除が正当化されたのである。また、モスクワのコミンテルンの命令による共産主義革命の企てが懸念されていた[7]。ザクセン政府が不法に設立された労働者民兵の武装解除を拒否したため、帝国執行が行われたのである[8]。コミンテルンの革命指令がある程度実現したのはハンブルグだけであった。そこでは、共産主義者の蜂起が起こり少数の死者がでたが、警察によって鎮圧された[7]。
アルトナ血の日曜日事件
1932年7月17日、プロイセンでアルトナ血の日曜日事件が発生する。この事件では、パーペン内閣によって禁止が解除されたばかりのナチ党の突撃隊(SA)と、共産党および社会民主党が衝突し、警察がそれを鎮圧した。しかし、警察の判断ミスにより市民19名の死者が出た。このとき、プロイセン内相カール・ゼーフェリンクはアルトナに非常事態を宣言したが、結局彼に代わり、中央政府が行動を起こした。
この事件の3日前の7月14日、首相パーペンとパーペン内閣の内務大臣ヴィルヘルム・フォン・ガイルは大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクのノイデックの自宅を訪れた。そこでヒンデンブルクにヴァイマル憲法第48条に基づいて、日付なしの緊急法令に署名させている。ヒンデンブルグはこの大統領令によって、ドイツ国首相たるパーペンにプロイセン担当共和国全権委員(国家弁務官、総督)となることを認めた。7月20日にパーペンはプロイセン首相職を引き受け、正式に国家弁務官に就任した。
7月20日
7月20日(水曜日)午前10時にパーペンの要請で、病気で休暇中のオットー・ブラウンの代理の副首相兼国民福祉相ハインリヒ・ヒルトジーファー、内務大臣カール・ゼーフェリンク、蔵相オットー・クレッパーが首相官邸を訪ねた。そこでパーペンは、ヒンデンブルクによる国家弁務官就任の勅令の内容と、プロイセン政府閣僚の罷免を伝えた。パーペンによれば「プロイセンの治安と秩序はもはや州政府によっては保証されない」という理由でクーデターを正当化した。

同日午後、パーペンはドイツ本国とプロイセン両方の首都であるベルリンとプロイセンの構成州であるブランデンブルクに戒厳を敷き、第3軍司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット陸軍歩兵大将に全権(行政権)を委任して、プロイセン政府が引き下がった後、プロイセン内務省、ベルリン警察本部、シュッツポライザー本部を占拠し、カール・ゼーフェリンク、ベルリン警視総監アルベルト・クシェジンスキ[9]、副警視総監ベルンハルト・ヴァイスなどプロイセンの政府閣僚、警察高官に罷免を通知し逮捕した[10]。パーペンはゼーフェリンク後任のプロイセン内相にエッセン市長フランツ・ブラハトを任命した。

アルベルト・クシェジンスキ、ベルンハルト・ヴァイス、保護警察司令官で中道派の政治家マグヌス・ハイマンズベルクは拘束され、今後一切の公務を行わないという誓約書にサインした後、翌日釈放された。プロイセン州政府の解体から大規模な粛清が始まった。それまで連立与党に所属していた次官、局長、県知事、警察長官などの官僚多数が一時的に引退させられ、代わりにドイツ国家人民党を含む保守的な公務員が着任した。その大半は民族主義者であった。また、この人事では特に社会民主党員や社会民主主義者が多く粛清された。しかし、社会民主党右派に所属しており、その中でも非常に右寄りの立場をとっていたハノーファー県知事で元国防相のグスタフ・ノスケは職に留まった。
これらの粛清は、ナチ党が政権を獲得した1933年に入っても続いたが、プロイセン権力機構の重要な役職は、アドルフ・ヒトラーが首相になる前にすでに粛清されていた。しかし社会民主党の幹部は7月16日に内戦を避けるため積極的抵抗をしないことをすでに決定していた。

