ヘルメル・オスルンド
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スウェーデン南部、カルマル県のヴィンメルビー(Vimmerby)で生まれた。父親のダニエル・オスルンド(Daniel Åslund: 1826–1885)は作家で水彩画家でもあり、弟のエリス・オスルンド(Elis Åslund: 1872-1956)と異母妹のフリーダ・オスルンド(Frida Åslund: 1879-1937)は作家として知られている。
ヴェステルボッテン県のウメオの学校で学んだ後、アメリカに渡り、工学を学んだ。アメリカ時代に名前を正しく呼んでもらうために姓の綴りを変えた。20歳になるころから絵を描き始め、ストックホルム近郊のグスタフスベリ磁器製造工場で1889年から1893年まで、装飾画家として働いた[3]。1890年に数週間の磁器研究のためにパリへ旅し、翌年はロンドンへ研修のため派遣された。1893年の秋、磁器製造工場を退職し、パリに移り[4]、1894年の春から私立の美術学校アカデミー・コラロッシで絵を学び始めるが、年末には資金が尽きて学校を辞めた。その後、ポール・ゴーギャンやイェンス・フェルディナンド・ウィルムセン(Jens Ferdinand Willumsen)らと働き、1894年末、ボンに移り、肖像画家として働いた。1895年から96年にかけてはロッテルダム、アムステルダムやロンドン、スコットランドに滞在した。
1897年にスウェーデンに戻り、友人のゲオルク・ヨハンソン・カーリン(Georg Fredrik Johansson (J:son) Karlin: 1859-1939)の紹介で、陶器も製造していた冶金会社ヘガネスAB(Höganäs AB)に、雇われ半年ほど働いた[5]。1898年ころからスウェーデンの風景画を描くようになり、北部の荒野で、キャンバスよりも持ち運びが容易な耐油紙に油彩で描いた。
1899年、美術収集家のポントゥス・フュシュテンベリーに注目され、1900年にストックホルムの絵画学校で学ぶ費用を提供され、リッカルド・ベリらに学ぶが半年ほどで退学した[4]。1905年にスンツヴァルで個展が開かれた。モダニズムの画家のレアンデル・エングストローム(1886-1927)とも知り合い、ラップランドの写生旅行に同行した。
1906年の春、イェーブレの市庁舎で大規模な展覧会を開き有力な顧客を得て1907年にも展覧示会を開き、1909年の秋にストックホルムの展覧会に参加し成功を収め、その収益で1910年にイタリアや北アフリカ、スペイン、フランスへの6か月間の旅をした。
1915年から1923年にかけて、ヴェステルノールランド県のソレフテオに住み、ファックス川沿いのグランヴォーグ周辺の風景を描いた。1923年から1930年まではヴェステルノールランド県のスンツヴァルに住んだ。1932年ロサンゼルスオリンピックの芸術競技にも参加した[6]。