ヘンリー・タッピング
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来日まで
アメリカ合衆国のウィスコンシン州デルトンで父チャールズ、母メアリーの9人の子の長男として生まれた[1]。オタワ (カンザス州)のオッタワ・アカデミーに入学後、1870年に13歳でオッタワ・リバーで洗礼を受け、オッタワ第二バプテスト教会の会員となる[1]。17歳で卒業し、父が経営する穀物店で働き、冬はシカゴの大学で学び、バプテスト系の親睦団体に属し、のちに同じく宣教師として来日したアーネスト・クレメントと知り合う。1883年にサウスダコタに移り、不動産業の傍ら日曜学校の校長を務めた。
1888年にジュネヴィーヴ・ファヴィルと結婚し、その後ニューヨーク州ロチェスター神学校、モーガン・パーク神学校に夫妻で入学する。ヘンリーは1890年にロチェスター神学校よりM.Aの学位を取得[3]。シカゴ大学神学部にも学び、B.D.を授与される[3]。歴史的黒人大学のひとつであるコロンビア (サウスカロライナ州)のベネディクト・カレッジ(en:Benedict College)でギリシャ語とラテン語を3年間教える[2]。
1895年(明治28年)、アメリカ・バプテスト・ミッショナリーユニオン派遣宣教師として夫妻で来日した[4]。
東京学院の設立
タッピングは来日後、東京学院(のちの関東学院)の設立願に宣教師アーネスト・W・クレメントとともに名を連ねている[4]。東京中学院と東京学院の教授を務め、関東学院として再出発した時にも教師として勤務した[4]。温厚な人柄から多くの人々に尊敬され、「ファーザー・タッピング」と呼ばれた[4]。
盛岡市での活動
1907年(明治40年)、タッピング一家は岩手県盛岡市に活動の場を移した。1907年 - 1920年の間、盛岡バプテスト教会(現内丸教会)に赴任したヘンリーは、キリスト教の伝道を研究しながら、岩手県立盛岡中学校で英語を教えた[3]。県立盛岡中学校で英語教師と盛岡浸礼教会の牧師を務めていた当時、詩人・童話作家の宮沢賢治は英語をタッピングに学び、教会でのバイブル講義も聴講している[4]。宮沢賢治はタッピングの家族とも親交があり、盛岡城跡公園(岩手公園)内には、一家を詠んだ詩「岩手公園」の刻まれた詩碑がある。そこには
- 「かなた」と老いしタピングは
- 杖をはるかにゆびさせど
- 東はるかに散乱の
- さびしき銀は聲もなし
- なみなす丘はぼうぼうと
- 青きりんごの色に暮れ
- 大学生のタピングは
- 口笛軽く吹きにけり
- 老いたるミセスタッピング
- 「去年(こぞ)なが姉はこゝにして
- 中学生の一組に
- 花のことばを教へしか」
- 弧光燈(アークライト)にめくるめき
- 羽虫の群のあつまりつ
- 川と銀行木のみどり
- まちはしづかにたそがるゝ
と刻されている[3]。
老いしタピングはヘンリー、ミセスタッピングはその妻のジュネヴィーヴ、大学生のタピングは息子のウィラード、なが姉はその姉のヘレンのこととされる[1]。
晩年
1919年に盛岡を離れ、オハイオ州、ニューヨーク州、シアトルを経て1922年に再来日し、私立中学関東学院で教え、山手英語夜学校の校長となったが、関東大震災で自宅も学校も壊滅し、伝道復活のため活動中にアミーバ赤痢に罹患。
1927年に病のため伝道活動を引退し、その後夫妻はアメリカやフィリピンに渡るが、1941年に再び来日する。この間、賀川豊彦に対しては、YWCAに進んだ娘が賀川の秘書になった事情もあり、支援をおこなった[3][4]。