ヘンリー・ド・ブーン (初代ヘレフォード伯)
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| ヘンリー・ド・ブーン Henry de Bohun | |
|---|---|
| 初代ヘレフォード伯 | |
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ブーン家の紋章 | |
| 在位 | 1199年 - 1220年 |
| 出生 |
1176年 |
| 死去 |
1220年6月1日 |
| 配偶者 | モード・ド・マンデヴィル |
| 子女 |
ハンフリー ヘンリー ラルフ |
| 家名 | ブーン家 |
| 父親 | 第5代トローブリッジ男爵ハンフリー3世・ド・ブーン |
| 母親 | マーガレット・オブ・ハンティングダン |


初代ヘレフォード伯ヘンリー・ド・ブーン(Henry de Bohun, 1st Earl of Hereford, 1176年 - 1220年6月1日)は、エセックスのプレシー城を居城とし、1199年からイングランドの大司馬をつとめたアングロ・ノルマン貴族。
ヘンリーは、ハンフリー3世・ド・ブーンとヘンリー・オブ・スコットランドの娘マーガレットとの息子で相続人であった[1]。父ハンフリー3世はウィルトシャーのトローブリッジ城とウェールズ南東部のカルディコット城の領主であり、トローブリッジの第5代男爵であった[2]。父はイングランドの最高司令官としてヘンリー2世に仕えた。ブルターニュ女公コンスタンスはヘンリーの異父妹である。
父方の祖母マーガレット・オブ・ヘレフォードは、初代ヘレフォード伯、ブレックノック領主、グロスター総督、イングランド大司馬であったマイルズ・フィッツウォルター・オブ・グロスター(1143年死去)の娘である。マイルズ・オブ・グロスターの男系が途絶えた後、1200年にジョン王はヘンリー・ド・ブーンをヘレフォード伯およびイングランド大司馬に任命した[3]。ヘンリーの領地は主にウェールズ辺境にあり、この日以降ブーン家は辺境地域の男爵の中でも主要な地位を占めるようになった[4]。
1212年、ヘンリーはトローブリッジをめぐって3代ソールズベリー伯爵ウィリアム・ロングスピーと法廷闘争を繰り広げた[5]。争いが長引いたため、ヘンリーは病気を理由に1213年6月の審問を欠席した[5]。これにより、トローブリッジは王室に返還された[5]。ヘンリーは、1215年にマグナ・カルタの条項を施行するために貴族によって選出された25人の貴族の一人であり、その後教皇により破門された。
1215年9月、ヘンリーはウィンチェスター伯サー・ド・クィンシーとロバート・フィッツウォルターとともにフランスへ向かった[6]。ルイ王子との会談で、ヘンリー、クィンシー、フィッツウォルターはルイへの忠誠を誓い、イングランドを征服するという条件で王位を差し出した[7]。マグナ・カルタに続く内戦では、ヘンリーはフランス王ルイ8世を支持し、1217年のリンカーンの戦いで捕虜となった[8]。