ヘンリー・バサースト (第2代バサースト伯爵)
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生い立ち
初代バサースト男爵アレン・バサースト(後の初代バサースト伯爵)とキャサリン・アプスリー(Catherine Apsley、1688年7月6日洗礼 – 1768年6月8日、サー・ピーター・アプスリーの娘)の次男(長男ベンジャミンは1767年に父に先立って死去)として、1714年5月20日に生まれた[2]。1725年から1728年までイートン・カレッジで教育を受けた後[3]、1730年5月14日にオックスフォード大学ベリオール・カレッジに入学した[4]。同年にインナー・テンプルに入学[3]、1736年2月7日に弁護士資格免許を取得した[4]。1743年6月22日にリンカーン法曹院に入学、1746年1月20日に勅選弁護士(KC)に選出された後、1746年4月25日にインナー・テンプルの評議員に選出された[5]。
庶民院議員
1735年4月、サイレンセスター選挙区の補欠選挙に立候補して庶民院議員に当選した[3]。ウォルポール内閣期で常に野党の一員として投票したが、ウォルポールの失脚後に父が官職に就任したため、バサーストも与党に転じた[3]。1744年に父が解任されると再び野党に転じてウェールズ公フレデリック・ルイスに接近、1745年にウェールズ公の法務次官(solicitor-general)に任命され、1748年にウェールズ公の法務長官(attorney-general)に昇進した[3]。1751年にフレデリック・ルイスが死去すると、バサーストが与党に転じたため、引き続きウェールズ公ジョージ(後の国王ジョージ3世)の法務長官を務めた[3]。
1754年イギリス総選挙では父の意向により立候補せず、議席を兄ベンジャミンに譲った[3]。同年5月2日に大法官の初代ハードウィック伯爵フィリップ・ヨークの推薦を受けて庶民間訴訟裁判所の裁判官に就任[6]、これによりウェールズ公の法務長官から退任した[3]。
大法官と枢密院議長
1770年1月20日に大法官チャールズ・ヨークが急死すると、21日に国璽尚書委員会(定員3名)の第2委員に任命された[6]。そのちょうど1年後である1771年1月21日に枢密顧問官に任命された[2]。さらに23日に大法官に任命され、24日にグレートブリテン貴族であるサセックス州におけるアプスリーのアプスリー男爵に叙された[2]。これに伴い庶民間訴訟裁判所の裁判官から退任した[3][1]。英国人名事典とオックスフォード英国人名事典によると、チャールズ・ヨークの死去に伴い任命された国璽尚書委員3名は全員能力不足だったが、そのうち能力の最も低いバサーストが大法官に任命されたという[6][5]。
ノース内閣の一員として常に閣議の決定事項を支持したという[6]。
1775年9月16日に父が死去すると、バサースト伯爵位を継承した[2]。
1776年に貴族院で行われたキングストン=アポン=ハル公爵夫人エリザベス・ピアポントの裁判では裁判の期間中に大家令を務めた[1]。
1778年6月の内閣改造で更迭されたが(後任は初代サーロー男爵エドワード・サーロー)、1779年11月に枢密院議長として再入閣した[6]。以降ノース内閣が1782年に総辞職するまで務めた[5]。
晩年
1783年にフォックス=ノース連立内閣が成立したとき、大法官への再任を申し出たが、サーロー男爵に辞任の意思がなく、バサーストが再び任命されることはなかった[5]。
1794年8月6日にサイレンセスター近くのオークリー・グローヴ(Oakley Grove)で死去[2]、同地の家族納骨所に埋葬された[5]。息子ヘンリーが爵位を継承した[2]。
