1449年頃、パーシーは第3代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーとエレノア・ポイニングズ(リチャード・ポイニングズ卿の娘)との間に生まれた。父はその血がヨーク派に近いのとは裏腹に、祖父ヘンリー・パーシー以来のネヴィル家との確執からランカスター派に忠誠を誓っていた。だが、祖父が1455年にセント・オールバーンズの戦いで、父が1461年3月29日のタウトンの戦いで戦死すると、ノーサンバランド伯爵の爵位は勝者であるヨーク派によって消滅させられ、この時10代のパーシーはロンドン刑務所(Fleet Prison)に投獄された(1464年に政治犯ということでロンドン塔に移送されている)。
1465年、ランカスター派掃討で功績を認められたジョン・ネヴィルがノーサンバランド伯に列せられたが、パーシーはヨーク派のエドワード4世に忠誠を誓って、1469年に釈放された。パーシーはエドワード4世に、先祖伝来のノーサンバランド伯爵位と伯爵領の返還を請願した。これがエドワード4世に認められた事で、ジョン・ネヴィルはノーサンバランド伯爵位を返還しなければならなくなり、代わりに1470年にモンターギュ侯に列せられた。だがパーシーへの所領の返還は、イングランド議会によって1473年まで延期された。
その後の12年間、パーシーはパーシー家が代々勤めた北イングランドの要職を歴任した。1485年8月22日のボズワースの戦いで、パーシーはヨーク派右翼の予備軍を指揮していたが、戦況を見つつも決して自軍を参戦させようとはしなかった。この時の彼の消極的な行動が、リチャード3世の敗死の大きな要因となった。歴史家の中にはこの行動を「ヘンリー7世に味方した反逆」とする見方もあるが、「リチャード3世が敗死した時のパーシーの右翼軍は、リチャード3世の本陣の後ろに退陣していたため、戦闘に参加できなかった」という説もある。
もっとも、仮に反逆だったとしても、ヘンリー7世はその意図を知らないか感謝もしていなかったらしく、パーシーはウェストモーランド伯ラルフ・ネヴィル、トマス・ハワードとともに逮捕された。パーシーは数ヶ月間収監されて、ヘンリー7世に忠誠を誓った。王権の安定を優先させたいヘンリー7世は、パーシーを好条件(爵位・所領とも安堵)で解放した。
1489年4月、パーシーはヨークシャーにある所領に住んでいた。当時、ヘンリー7世はフランスのシャルル8世に対抗するためにブルターニュ女公アンヌと同盟しており、軍費調達のために税が高騰していた。この高い課税に抗議してヨークシャーのジョン・イグリモント卿は暴動を扇動し、目をつけられたパーシーは4月28日、暴徒によって殺害された。
ヨークシャーは元々ヨーク派の拠点であり、リチャード3世の支持が根強かったので、恐らくパーシーはリチャードの敵討ちで殺されたのだろう。