ベルタ・フォン・ホーエンシュタウフェン
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| ベルタ・フォン・ホーエンシュタウフェン Bertha von Hohenstaufen | |
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ベルタ(右)と夫マチュー1世(17世紀画) | |
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| 出生 |
1123/30年 |
| 死去 |
1194/5年 |
| 配偶者 | ロレーヌ公マチュー1世 |
| 子女 | 本文参照 |
| 家名 | ホーエンシュタウフェン家 |
| 父親 | シュヴァーベン大公フリードリヒ2世 |
| 母親 | ユーディト・フォン・バイエルン |
ベルタ・フォン・ホーエンシュタウフェン(ドイツ語:Bertha von Hohenstaufen, 1123/30年 - 1194/5年)は、ロレーヌ公マチュー1世の妃。息子シモン2世の統治の初期に摂政の座を争ったが、息子が成人したためその地位を追放された。名はユーディト(Judith)ともいわれる。
ベルタは、シュヴァーベン大公フリードリヒ2世とバイエルン公ハインリヒ9世の娘ユーディト・フォン・バイエルンの娘である[1]。ホーエンシュタウフェン家の一員であり、父方の叔父はドイツ王コンラート3世、兄は後の神聖ローマ皇帝フリードリヒ・バルバロッサであった。
ベルタは1138年ごろに、ロレーヌ公マチュー1世と結婚した[2]。ベルタは夫とともに多くの特許状を発行した[3]。文書を承認するために少なくとも2種類の異なるシールを使用し、そのシールは馬にまたがる姿を描いたものであったが、これは中世の貴族の女性が用いたシールとしては非常に珍しいデザインであった[4]。
1176年にマチュー1世が死去すると、息子シモン2世がロレーヌ公として跡を継いだ。シモン2世は健康面で虚弱であったため、ベルタは摂政として権力を掌握し、息子と共に署名し文書を発行した[5]。しかし、シモン2世は成人していたため、ベルタの摂政位は違法とみなされ、貴族から広く反対され、破門された。ベルタは政治的な立場から退き、メス司教の前で懺悔をすることを余儀なくされた。