ベルフォード・ウィルソン
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サー・ベルフォード・ヒントン・ウィルソン(Sir Belford Hinton Wilson KCB、1804年 – 1858年12月27日)は、イギリスの外交官、シモン・ボリバル配下の軍人。
父の不祥事によりイギリス陸軍入りの道を断たれた後、父のつてでボリバルの部下になり、ボリバルの大コロンビアが失敗に終わった後もボリバルの死の床まで付き添った[1]。外交官としてはイギリスとペルー・ボリビア連合の友好通商航海条約の締結に成功、イギリス商人に利益をもたらしたが、連合では大統領アンドレス・デ・サンタ・クルスの後ろの黒幕と批判され、結局連合が解体された後の1841年末に暗殺を恐れて退任した[1]。その後、1842年から1852年まで在ベネズエラ代理公使を務めた[2]。
生涯
サー・ロバート・ウィルソンと妻ジェマイマ(Jemima、1777年 – 1823年、ウィリアム・ベルフォードの娘)の息子として、1804年にロンドンのアッパー・ブルック・ストリート54番地で生まれた[1]。1814年から1818年までウェストミンスター・スクールに通った後、サンドハースト王立陸軍大学に進学したが、1821年に父がキャロライン王妃のジョージ4世戴冠式出席を手助けしようとして陸軍を除籍された[1]。
父が起こした事件により陸軍入りの道を断たれたベルフォードは1823年にペルー副王領に渡り、シモン・ボリバルによりエー=ド=カン(副官)に任命され、陸軍大尉の軍階を与えられた[1]。これは父が急進派所属のイギリス庶民院議員であり、議会でイギリスによる南米の独立承認を説き、ホイッグ党寄りの新聞でボリバルの演説を出版したためで、父の影響力によるところが大きい[1]。1826年5月、ボリバルが起草した1826年ボリビア憲法をリマからスクレまで届けた[1]。19日間に1,800マイルを乗馬で走破しており、この功績により大佐に昇進した[1]。
ペルーによる大コロンビア攻撃(大コロンビア・ペルー戦争)を批判し、1828年にメキシコとアメリカ経由で帰国した後はイギリスの工業都市を遊説して、イギリスと南米諸国の貿易を促した[1]。一方で南米での外交職任命は1828年にウェリントン公爵内閣が成立した(ウェリントン公爵はベルフォードの父の政敵)ことで実現しそうになく、ベルフォードは1830年には大コロンビアに戻った[1]。このときには大コロンビアが解体寸前であり、大統領ボリバルは国を去ることを選んだが、ベルフォードはボリバルに付き添い、サンタ・マルタでの死の床にも立ち会った[1]。
本国では政権交代でホイッグ党のグレイ伯爵内閣になり、ベルフォードは1832年4月18日に在ペルー領事に任命され[1]、同年9月23日にペルーとの通商条約を交渉する全権を与えられた[3]。ベルフォードは領事として本国の外務省に多くの報告書を提出したほか、現地のイギリス人商人とも良好な関係を築いたが、ペルー政界では1834年の内戦、1835年から1836年までの内戦と混乱が続き、1836年に勝利したアンドレス・デ・サンタ・クルスはペルー・ボリビア連合を結成した[1]。ベルフォードはサンタ・クルスに接近して、1836年/1837年6月5日にペルー・ボリビア連合と友好通商航海条約を締結した[1][3]。イギリスが条約を批准すると、両国間の外交関係が成立、ベルフォードは1837年11月18日に在ペルー・ボリビア連合代理公使に任命された[1][4]。また奴隷貿易に関する条約の交渉全権を1838年3月(ペルー・ボリビア連合との条約)、1839年8月(ペルーとボリビアとの個別条約)の二度にわたって与えられた[4][5]。
条約がイギリス商人に莫大な利益をもたらした一方、ペルーの新聞ではベルフォードがサンタ・クルスの陰で影響力を行使する黒幕であると批判された[1]。もっとも、連合がチリに侵攻された(連合戦争)ときはイギリスの外務大臣の第3代パーマストン子爵から厳命されたこともあって、艦隊で介入することはせず、1839年にサンタ・クルスが敗北して亡命したときに軍艦で手助けした程度だった[1](『オックスフォード英国人名事典』は、パーマストン子爵の命令がなければ、ベルフォードは介入を選んだのであろうと評した[1])。1840年に在ボリビア公使に任命され、同年9月12日にスクレでボリビア大統領ホセ・ミゲル・デ・ベラスコに謁見、25日に奴隷貿易に関する条約、29日に通商条約を締結した[5]。11月11日にスクレを離れ[5]、1841年1月中旬にリマに戻ったが[4]、自身が暗殺されることを恐れ[1]、同年12月末にカヤオから発った[4]。
1842年11月30日に在ベネズエラ代理公使としての信任状を受け、1843年4月8日にカラカスに到着した[2]。1848年5月23日から1850年1月初まで休暇で不在だったほか、1851年6月1日より再び休暇を取ってカラカスを発ち、そのまま退任した[2]。在ベネズエラ公使としてもイギリスの国益を守ったが、ペルー・ボリビア時代のような大事件は起こらなかった[1]。1852年12月23日、バス勲章ナイト・コマンダーを授与された[6]。
1858年12月27日にメイフェアのパーク・ストリート130番地にある自宅で死去、ケンサル・グリーン墓地に埋葬された[1]。