ペトリキウカ塗り
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ペトリキウカ塗りは、ウクライナ中部のドニプロペトルィキウカで発展した装飾芸術である。18世紀にコサックの入植と共に始まり、19世紀後半から20世紀初頭に現代的な形式が確立した[2]。農民が自宅の壁、家具、楽器に描いた壁画(ウクライナ語: стінопис)や「マリョーフカ」(紙の装飾画)に起源を持つ[3]。
主なモチーフは幻想的な花、鳥、植物で、現地の動植物に基づく。雄鶏は「火」や「精神の目覚め」、鳥は「光」「調和」「幸福」を象徴する[1]。伝統的に自然由来の顔料(花、草、木の皮)と猫の毛の筆(ウクライナ語: кошачка)を使用し、独特の筆技法で描かれる[4]。現代ではアクリル絵具や合成筆も普及し、多様な素材(陶器、布、ガラス)に展開している。
歴史
起源と発展
ペトリキウカ塗りは、18世紀にポルタヴァ州やスロボダ・ウクライナからの入植者によりドニプロ地方に持ち込まれた[2]。初期は壁画や木製の箱(特に結婚用の箱)に施され、桜(赤)、雑草(緑)などの自然顔料を使用。19世紀後半から紙に描く「マリョーフカ」が普及し、農村の女性が家屋を飾る技術として発展した[5]。
1911年と1913年、民族学者ドミトロ・ヤヴォルニツィキーの調査で記録され、1913年のサンクトペテルブルクでの展示が初の公式発表とされる[3]。1935-36年にキエフ、レニングラード、モスクワで展示会が開催され、テティアナ・パタらが「人民芸術の巨匠」に認定された[6]。
工業化とソビエト時代
1936-44年、マルファ・ティムチェンコやヴィーラ・クリメンコ=ジュコーヴァらがキエフに移り、陶器や漆塗りにペトリキウカ塗りを応用。ソビエト時代の1958年、ペトリキウカに「友情(Дружба)」工場が設立され、フェディール・パンコ主導で大量生産を開始。土産物の大量生産が行われるようになったことに対して、一部の職人たちはペトリキウカ本来の芸術性が無視されていると不満を抱いていた[7]。また、この時期にはホフロマ塗りなどのロシアの民俗芸術の要素が意図的に取り込まれ、本来のペトリキウカ塗りでは使われていなかった黒色が使用されるようになるなど、政策による画一化が進められた。しかし、ペトリキウカを守りたいと願う職人たちの努力によって、他の地域固有のデザインが失われていく中でも、独自のスタイルと伝統が維持された[7]。
現代
2012年、ドニプロ劇場芸術カレッジでペトリキウカ塗りの専門教育が開始[8]。2013年、リュドミラ・ゴルブーリャ作の公式ロゴが登録され、ユネスコ無形文化遺産に登録された[9][1]。2016年、ウクライナ国立銀行が5フリヴニャと10フリヴニャの記念コインを発行[10]。
2022年のロシアによるウクライナ侵攻以降、ペトリキウカ塗りはウクライナの文化的アイデンティティを象徴する存在として注目を集め、国際的な展示やワークショップが増加している[11]。
2020年10月26日、ペトリキウカ塗りはウクライナにおいて地理的表示(GI)として登録された[12]。これにより、製造工程の特定の段階が原産地で行われることが保証され、製品の固有の品質が担保されることとなった[12]。
技法
ペトリキウカ塗りは幻想的な花(ダリア、アスター、チューリップ、カミツレ、ヤグルマギク、カリーナなど)を中心に、鳥や動物(特に火の鳥は幸福を象徴)を描く。伝統的に白い背景を用いるが、現代では黒や青も使用される。主な技法は以下の通り:
- 「гребінець」:筆を押して太く、軽く引いて細くする。
- 「зернятко」:軽いタッチから強い筆圧で描く。
- 「горішок」:2つのгребінецьを対称に配置。
- 「перехідний мазок」:2色の絵具で滑らかな色変化を作る[13]。
職人が最も誇りにしている道具は、「コティヤチカ」と呼ばれる手作りの猫の毛の筆である。この筆にはメスの雑種猫(野良猫)の毛が最適とされ、職人は猫から「許可」を得て手や首の毛を少しだけ切り取って使用する。切り取った毛は先端を揃えて糸でくくられ、筆となる。古い筆ほど価値が高く、猫の毛の持つ柔軟性によって、太い線から「ペトゥシンニャ」と呼ばれる極細の線まで多彩な表現を描き出すことができる[7]。
ペトリキウカ塗りは、植物を写実的に描くのではなく、仮想の植物を描く点に特徴がある。その最も代表的な要素が、半分に切った玉ねぎに似ていることから名付けられた「ツィブリカ」であり、ペトリキウカ村にはその記念碑が建てられているほど象徴的なデザインである。他にも、歯が湾曲した櫛のような形をした「クチェリャーウカ(捻じった花)」や、細い線を重ねて絵に透明感や軽快さを与える「ペトゥシンニャ」といった特有の表現手法が存在する[7]。
文化的意義
著名な職人
- テティアナ・パタ(1884-1976):現代ペトリキウカ塗りの基礎を築き、1935年に学校を設立[6]。
- マルファ・ティムチェンコ(1922-2009):陶器への応用で知られ、ソビエト指導者が外国首脳に贈呈[16]。
- フェディール・パンコ(1924-2007):工場と実験工房を主導、現代的発展に貢献[6]。
- 現代:ナタリア・スタティヴァ=ジャルコ、ガリナ・ナザレンコ、ヴァレンティナ・パンコらが国際展示で活躍[17]。
文化的応用
- 建築:キエフの聖ユーリー寺院(ガリナ・ナザレンコとイリナ・キーベツによる装飾)、パリのウクライナ文化センター(旧アラン・ドロン邸)[18]。
- 記録:2012年、120mの装飾フェンスがウクライナ記録簿に登録[19]。
- 商業利用:本来は家屋の壁やドアの装飾として、悪霊から守護する魔除けの意味を込めて描かれていたが、のちに家具や楽器、家財道具へと広がった[7]。現代では表現の幅がさらに大きく広がり、Tシャツやスウェットなどの衣類、鞄をはじめ、自動車のボンネットやスマートフォンのケースなど、多様な日用品にペトリキウカ塗りのデザインが応用されており、高い人気を博している[7]。現代では、ファッション(服、アクセサリー)、インテリア(壁紙、食器)、広告デザインに採用され、ウクライナ国内外で人気[20]。
国際的影響
ペトリキウカ塗りは、ユネスコ登録以降、国際的な認知度が向上し、ウクライナの文化大使として機能している。2015年以降、欧州(フランス、ドイツ)、北米(カナダ、米国)、アジア(日本、中国)で展示会やワークショップが開催された[21]。特に日本の伝統工芸(例:友禅)との類似性が注目され、2019年の東京での展示では共同ワークショップが実施された[22]。
2022年のロシアによるウクライナ侵攻後、ペトリキウカ塗りはウクライナの抵抗と文化的復興のシンボルとして、難民コミュニティやディアスポラによるワークショップが世界中で開催されている。カナダのトロントでは、2023年にペトリキウカ塗りの慈善展示が開催され、収益がウクライナ支援に寄付された[23]。
日本においても、ウクライナから避難してきた女性らが立ち上げたオンラインショップ等を通じて、空襲の危険や停電の中で作業を続ける現地の職人(ヴァレンティーナ・ホメンコなど)と契約を結び、ペトリキウカ塗りの皿や木製ブローチなどの工芸品を輸入・販売して職人の生活を支える取り組みが行われている[24][25]。また、2025年8月には大阪の大阪国際交流センターでウクライナ文化センターが主催する「ウクライナの文化遺産」展が開催され、職人を招いたペトリキウカ塗りの絵付けワークショップが実施されるなど、日本国内でも文化発信と支援の活動が継続されている[26]。
教育と継承
ペトリキウカ塗りの継承は、ウクライナの教育機関や民間イニシアチブを通じて強化されている。2012年のドニプロ劇場芸術カレッジでの専門コース開設以降、若者への技術伝承が加速した[27]。2020年以降、オンライン講座(例:ナタリア・スタティヴァ=ジャルコ主催)が普及し、国際的な学習者も増加している[28]。
地域では、ペトリキウカ村のペトリキウカ民俗博物館がワークショップを開催し、観光客や地元住民に技法を教えている。2024年、ウクライナ文化省はペトリキウカ塗りを学校カリキュラムに導入する計画を発表し、さらなる普及を目指している[29]。
ギャラリー
- ナタリア・スタティヴァ=ジャルコ作「8月」
- 1980年代の箱
- カリーナの箱、1980年代
- 火の鳥の箱、1980年代
- ヴォロディミル・グルシチェンコ作の2013年切手