ペドロ・フィガリ

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死没 1938年7月24日(1938-07-24)(77歳没)
ウルグアイの旗 ウルグアイ モンテビデオ
ペドロ・フィガリ
Pedro Figari
1921年ころのペドロ・フィガリ
生誕 (1861-06-29) 1861年6月29日
ウルグアイの旗 ウルグアイ モンテビデオ
死没 1938年7月24日(1938-07-24)(77歳没)
ウルグアイの旗 ウルグアイ モンテビデオ
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ペドロ・フィガリ・ソラリ(Pedro Figari Solari、1861年6月29日 - 1938年7月24日)は、ウルグアイの画家、弁護士、作家、政治家である。独学の画家で、モダニズムのスタイルの絵画で知られる。

モンテビデオでイタリア移民の息子で生まれた。幼いころから美術を好んでいたが法律家の道に進み、ウルグアイ共和国大学(Universidad de la República)で学び、1885年に法学博士号を取得し、学位論文『農法』は出版された。

1886年に結婚し、ヨーロッパを旅した。29歳になった時、イタリア生まれでモンテビデオで美術学校を開いたゴッフレード・ソンマヴィッラ(Goffredo Sommavilla: 1850-1944)の絵画教室に通い始めた。

弁護士として刑事事件の弁護として実績をあげた。1893年に自由主義的な新聞『El Deber』を創刊し、共同編集長となり、ジャーナリズム活動を開始し、1905年には新聞『El Siglo』に22本の記事を発表し、1907年のウルグアイ死刑廃止に決定的な役割を果たした。1910年から1911年の間に、新聞『La Razón』に19本の記事を発表した。

1897年に中道政党のコロラド党(Partido Colorado)からロチャ県の下院議員に選出され、1900年と1902年にはラバジェハ県の議員に選出され、美術学校設立のための法案を提出した。国務評議員になり、国立工兵局の法務顧問などを務めた。文化機関のアテネオ・デ・モンテビデオ(Ateneo de Montevideo)の議長を務め、文化的プロジェクトを推進した[1]

1904年の内戦後には、戦闘後の負傷者への医療支援する組織の議長も務めた。

1916年には工芸学校の校長になり応用美術の教育に貢献しし、美術と産業に関する著作を行った。

1927年にはイギリス王室への特別使節団の一員に任じられ全権大使を務め、バッキンガム宮殿で、イギリス国王、ジョージ5世から大英帝国勲章を受勲した。1932年ロサンゼルスオリンピックの芸術競技にも参加した[2]

1938年にモンテビデオで亡くなった。

作品

脚注

参考文献

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