ペマキッドの戦い (1696年)
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北緯43度54分24.3秒 西経69度30分54.1秒 / 北緯43.906750度 西経69.515028度座標: 北緯43度54分24.3秒 西経69度30分54.1秒 / 北緯43.906750度 西経69.515028度
| ペマキッドの戦い | |||||||
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| ウィリアム王戦争中 | |||||||
ウィリアム・ヘンリー砦(1910年の絵葉書) | |||||||
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| 衝突した勢力 | |||||||
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ヌーベルフランス アベナキ | イングランド王国植民地住民 | ||||||
| 指揮官 | |||||||
| ピエール・ル・モイヌ・ディーベルヴィユ | パスコ・チャブ | ||||||
| 戦力 | |||||||
| フランス系カナダ人100、アベナキ族400 | ニューイングランド部隊93 | ||||||
| 被害者数 | |||||||
| 不明 | 不明 | ||||||
ペマキッドの戦い(ペマキッドのたたかい、Siege of Pemaquid)は、ウィリアム王戦争中に起こった戦闘である。フランスとインディアンの連合軍が、ヌーベルフランスから、イングランド植民地のペマキッド(現在のメイン州ブリストル)を攻撃したもので、このペマキッドはアカディアと国境を接していた。戦闘を指揮したのはピエール・ル・モイン・ディベルヴィユとジャン=ヴァンサン・ダバディ・ド・サン=キャスタン(パンタグ、現在のメイン州キャスティン出身)で、この砦の駐屯隊長だった大尉のパスコ・チャブは、1696年8月14日の二日間に及ぶ戦いで降伏した。ディベルヴィユは兵士のうち3人を殺し、あとの92人をボストンに送り返した。
このペマキッドの勝利は、ウィリアム王戦争中のフランスの勝利でも意義深いもののひとつだった[1]。この戦いの後、ニューイングランド軍は報復としてアカディアへの襲撃(シグネクト奇襲)を行った[2] 。

17世紀の大部分の期間、ペマキッド(現在のメイン州ブリストル)は、ニューイングランドの中でも最も北部の沿岸にある植民地であり、一方パンタグ(現在のメイン州キャスティン)は、ヌーベルフランスのアカディア植民地の最南端にあった[3]。
1692年までに、イングランドはこの地域の支配を奪還し、マサチューセッツ湾直轄植民地の総督サー・ウィリアム・フィップスが、破壊されたペマキッド砦の代わりにウィリアム・ヘンリー砦を作るように命じた。このウィリアム・ヘンリー砦は、ニューイングランドの北の境界を守る砦となり、またニューイングランド最大の砦でもあった[4]。
マサチューセッツの政府は、この砦の建設に予算の3分の1を費やした[5]。石としっくいでできており、地上10フィートから12フィート(約3メートル5センチから3メートル65センチ)の高さのところに6フィート(約1メートル83センチ)の厚さの壁の砲門があり、18門の大砲が備え付けられていた。この砦は、大尉のジョン・マーチの指揮の下、ベンジャミン・チャーチの助力を得て再建された[6]。砦の駐屯隊長は大尉のパスコ・チャブで、この人物は、アベナキ族による休戦協定をふみにじり、アベナキの重鎮たちを何人も殺していた[5]。
一方、1696年当時、フランスの勢いは大西洋地域にまで広がり、防御がより一層強化されるようになっていた。ニューファンドランドでは、戦略的な転機が訪れていた。フランスのこの大西洋進出は、カナダ生まれのピエール・ル・モイヌ・ディベルヴィユによるところが大きかった[7]。
