ペントミック
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陸軍は、1949年までに核兵器の戦術的使用の問題についての研究を開始していた[3]。またハードウェア面でも、1944年には既に核兵器を使用するための火砲(原子砲)の開発が着手されており、1953年にはM65 280mmカノン砲による核砲弾(W9)の射撃試験が成功し(アップショット・ノットホール作戦)、陸戦における真の核兵器時代が到来した[3]。
同年に就任したアイゼンハワー大統領は放漫財政を是正して「健全な経済」を確立することを重視しており、冷戦が激化するなかで国防費と兵力を削減していくために核兵器の抑止力に期待が向けられた[4]。ソビエト連邦の在来戦力が圧倒的優位にあるヨーロッパにおいて、核兵器はその相殺手段と捉えられ、アメリカ軍は、この新しい兵器による軍事革命の可能性を予見した[3]。同年に陸軍参謀総長に就任したマシュー・リッジウェイ大将は、就任時のスピーチで「陸軍の『機動』と『火力』を増加させ、より効果的なものにしなければならない」と述べ、核兵器が陸軍の新しい火力の大部分に取って代わることを示唆した[5]。
これを受けて陸軍全体で核時代への対応が志向され、特に西ドイツに駐留する第7軍団長のジェームズ・ギャビン中将は、核戦場を想定した戦術演習を統裁して「第二次世界大戦タイプの編制は核戦術には適用できず、例外があるとすれば機甲師団である」と述べるとともに、歩兵師団を、自律的で広く分散でき、独力での継戦能力を備えた戦闘グループにできるように再編する必要があると結論づけた[5]。また1954年には、陸軍の正規の研究の一環としての野外試験も行われた[5]。これらの試みを踏まえ、1955年2月の会議において、ギャビン中将は線形(linear)よりはむしろ細胞(cellular; 拠点・分散)の戦場を予測すると述べた[5]。またそれまで師団長が統制する連隊は3つが上限だったが、試験を通じて、通信機能の改善によってより多くの部隊を運用することが可能であると立証され、「隷属する部隊の最適な数は5個」と結論された[5]。
これらの検討を踏まえ、リッジウェイ大将の後をついで陸軍参謀総長となったテイラー大将によって提唱されたのがペントミック・コンセプトであり[1]、まず1956年9月に第101空挺師団が再編されたのを皮切りに、12月には陸軍の全ての師団の再編成が承認されて、再編に着手した[5]。
編制

ペントミック師団は、公式にはROCID(Reorganization of the Current Infantry Division: 現行歩兵師団の改編)と称される[6]。その根本的なコンセプトは、師団を、ある程度の独立作戦が可能な5個の戦闘群(Battle group)に分割し、迅速に離合集散を繰り返すことで、戦術核兵器の攻撃対象となりうる部隊集結状況を減らし、残存性を高めることにあった[5]。それぞれの戦闘群は他の戦闘群と接して並ぶのではなく互い違いになる「チェッカーボード」方式での配置を予定しており、それぞれ全周防御の能力を持って、小区画化された戦場で行動し、独力での継戦能力を有するよう設計されており、師団全体としての冗長性を確保するよう計画された[5]。また核戦争と同時に限定戦争にも対応するため、戦車以外の装備品について空輸能力の向上が求められた[5]。
ペントミック師団の戦闘群は従来の大隊よりは大きいが、連隊よりは小さく、それぞれ、5つの小銃中隊、迫撃砲を含む戦闘支援中隊、そして本部と本部管理中隊を含んでいた[5]。師団長直轄の戦闘群(2個以上)とは別に特殊任務部隊を編成して、副師団長の指揮下に置くことができた[5]。またこれらの戦闘群とは別に、5個戦車中隊からなる装甲大隊、3個運用単位を保持する騎兵大隊、5個直接支援砲兵大隊、そして1個全般支援砲兵大隊があり、装甲兵員輸送車は輸送大隊の一元統制下に維持された[5]。
歩兵師団ではこのように抜本的な再編がなされたのに対し、機甲師団における影響は限定的で、従来のコンバット・コマンド編制は保持された[5]。機甲師団における主な変更点は核能力、非核火力、そして強力な航空部隊の分遣能力の保持であった[5]。
なお1950年代末期にアイゼンハワー政権が核戦力を重視する政策を採ったのを受けて、陸軍規模が縮小されることになると[注 2]、ペントミック師団もその例外とはならず、以前の師団編制と比べて、約3,000名の削減となった[5]。