ペーテル・ブノワ
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ペトルス・レオナルドゥス・レオポルドゥス・ブノワ(Petrus Leonardus Leopoldus Benoit)は、フランドルのハーレルベーケに生まれた。彼は幼少期より父と村のオルガニストから音楽の手ほどきを受けていた。1851年にブリュッセル王立音楽院へと入学した彼は、1855年に卒業するまでの間に主としてフランソワ=ジョゼフ・フェティスに師事した。この期間に彼は多くのメロドラマに音楽を付け、オペラ『Le Village dans les montagnes』にも作曲した。このオペラは1856年にブノワが常任指揮者となるPark劇場において上演された。彼は1857年にカンタータ『Le Meurtre d'Abel』によってベルギーのローマ大賞[注 1]を獲得し、副賞の賞金によってドイツ中を旅して回ることができるようになった。この道中における潤沢な時間を使って、彼は数多くの音楽作品を作曲するとともに『L'École de musique flamande et son avenir』と題した小論を著した。
ブノワはドイツから帰国後のブリュッセルで『Messe solennelle』を作曲し、フェティスはこの作品を大いに称賛した。1861年にブノワはオペラ『Le Roi des Aulnes[注 2]』の上演のためにパリを訪れたが、リリック劇場からの了承があったものの上演されることはなかった。パリ滞在中にはブッフェ=パリジャン劇場で指揮を行っている。再び帰郷した彼は『Cantate de Noël』と上記のミサ曲、及び『テ・デウム』、『レクイエム』からなる宗教的4部作を上演してアントウェルペンの音楽界に衝撃をもたらした。これらの作品は彼のフラマン音楽に関する理論をかなりの割合で具現化したものだった。
ブノワは完全に独立したフラマン楽派を創設することに情熱を注ぎ、この目的のために自らの名前をフランス語のピエールからオランダ語のペーテルへと改めた。驚異的な努力の末、彼はフランスやドイツの楽派とは全く異なるフラマン楽派に可能性を見出す熱心な人物らからなる、小グループの結成に成功した。しかしながら、楽派の信条があまりにブノワ自身の音楽に縛られ過ぎていたため、これらの試みは失敗に終わる。それはフランスやドイツの音楽でないのと同様に、フラマン音楽とも言い難いものだったのである。
ブノワの作品で最も重要なのは、フラマン語のオラトリオ『スヘルデ川 De Schelde』と『Lucifer[注 3]』、オペラ『Het Dorp in 't Gebergte』と『Isa』、そして『Drama Christi』、膨大な数の歌曲、合唱曲、小カンタータ、モテットなどである。フルート協奏曲(交響詩)Op.43a、ピアノ協奏曲(交響詩)Op.43bも知られる。また、彼は音楽に関する小論を数多く著している。
ブノワはアントウェルペンで66年の生涯を閉じた。