ホセイン・タエブ
From Wikipedia, the free encyclopedia
経歴
昇進の経緯
タエブは1963年にテヘランで生まれた[2]。
中等教育の後に神学校へ進み、テヘラン、ゴム、マシュハドの神学校で学んだ。1982年ごろ、19歳でイスラム革命防衛隊に入り、テヘラン第10区の革命防衛隊で活動を始めた後、ゴムおよびホラーサーン・ラザヴィー州の革命防衛隊に移った。その後、革命防衛隊の文化副官やイマームホセイン大学文化学部司令官を務めた[6]。
アリー・ファッラーヒヤーンが情報相を務めていた時期に情報省に入り、同省の防諜部門責任者を務めたが、その後、同省から外されたと報じられている。モハンマド・ハータミー政権期には、最高指導者アリー・ハーメネイー周辺の関係者によって形成された非正規の情報組織の責任者の一人となり、ハーメネイーの最高指導者事務所で活動した[6]。
バスィージ司令官
2007年11月、当時の革命防衛隊総司令官モハンマドアリー・ジャアファリーにより、バスィージ副司令官に任命され、翌2008年7月にはバスィージ司令官に就任した[6]。
2009年イラン大統領選挙抗議運動では、治安部隊、イスラム革命防衛隊、バスィージが各地の抗議デモを厳しく弾圧し、多数の死傷者と逮捕者を出した[7]。
タエブ個人についても、バスィージ司令官として、抗議運動の弾圧、タラーネ・ムーサヴィー殺害事件の(抗議運動で拘束された女性が、拘禁中に性的暴行を受けて死亡し、遺体を焼かれて遺棄されたとされる事件)の隠蔽工作、ゲルダーブ事件(革命防衛隊系のサイバー治安部門に拘束されたウェブサイト運営者・ブロガー・ネット活動家らが拷問されて自白映像の公開を強要されたとされる一連の事件)などに関与したことが人権団体により指摘されている[8]。
革命防衛隊情報機関長官

2009年、タエブはイスラム革命防衛隊情報機関の長官に就任した[4]。タエブは同機関を約13年にわたって率い、革命防衛隊の情報・治安部門における有力者となった[9]。
タエブの在任中、革命防衛隊情報機関は情報省と並ぶイランの主要な情報機関の一つとなった。イラン・インターナショナルは、同機関が近年、情報省が担当するとみなしていた諜報・防諜分野や、ゴドス軍が担う対外作戦分野にも活動領域を広げ、他の情報・治安機関との間に緊張を生じさせていたと報じている[10]。
タエブは、革命防衛隊情報機関長官として、ジャーナリスト、市民活動家、政治活動家、宗教的少数派、民族的少数派、サイバー活動家らに対する大量逮捕、拘禁、拷問にも責任を負う人物とみられている[11]。
2022年6月、タエブは革命防衛隊情報機構長を退き、後任には革命防衛隊情報保護機構の責任者だったモハンマド・カゼミが就任し、タエブは革命防衛隊総司令官ホセイン・サラーミーの顧問に任命された[4]。
イラン国営テレビは交代理由を明らかにしなかったが[4]、この更迭は、イラン国内で軍関係者や科学者の暗殺、核施設やドローン・ミサイル基地への攻撃が相次ぎ、イランの情報機関の能力に疑問が呈される中で行われた。『Axios』は、モサド報道官の説明として、イラン指導部が、タエブ率いる革命防衛隊情報機関が国内での攻撃を阻止できず、国外での対イスラエル報復にも失敗していることに不満を抱き、タエブの更迭を検討していたと報じている[12]。
また、同時期にはトルコメディアが、イスタンブールでイスラエル外交官や観光客を拉致・攻撃しようとしたイランのスパイ網が摘発されたと報じ、これについてイスラエル外相ヤイル・ラピドは、イランがイスラエル人に対するテロ攻撃未遂の背後にいると批判していた[12]。タエブの更迭は、こうしたトルコでのイスラエル市民暗殺計画をめぐる報道に加え、革命防衛隊情報機関の能力に厳しい視線が向けられる中で行われたと『Iran wire』は指摘している[13]。
