ボスニア・ヘルツェゴビナの歴史

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ボスニア・ヘルツェゴビナの歴史(ボスニア・ヘルツェゴビナのれきし、Историја Босне и Херцеговине、History_of_Bosnia_and_Herzegovina)について、この項目では記述する。

中世

ボスニア・ヘルツェゴビナは、長い間他の国に支配されていたが、12世紀前半にクリンがボスニア中部を統一し、ボスニア王国を建国。その後、領土を拡大し、衰退するセルビアに代わってこの地域の最大勢力となった[1]

近世

1463年、バルカン半島に進出したオスマン帝国がボスニアへ侵攻。その後400年間に渡りオスマン帝国の支配が続いた。しかし、1873年に起こった農民の反乱がきっかけで起こった露土戦争によるベルリン条約で、オーストリア=ハンガリー帝国の支配下に移った[2]

近代

第一次世界大戦

大セルビア主義を掲げるセルビアのテロ組織・黒手組は、オーストリア=ハンガリー帝国皇太子フランツ・フェルディナント及びその妻ゾフィーをボスニアのサラエヴォにて暗殺。

オーストリアはセルビアに対して最後通牒を送ったが、セルビアがその一部への返答を保留したため、オーストリアはセルビアに宣戦布告。第一次世界大戦が勃発した。

大戦後、ボスニア・ヘルツェゴビナは崩壊したオーストリア=ハンガリー帝国に代わってセルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国(後のユーゴスラビア王国)に領有された。

現代

第二次世界大戦

1941年、ナチス・ドイツなどの枢軸国軍がユーゴスラビアへと侵攻。ユーゴスラビアは分割され、ボスニア・ヘルツェゴビナはユーゴスラビアから独立したクロアチア独立国が領有することとなった。

ボシュニャク人によって結成された武装親衛隊ハンジャール師団ユーゴスラビア・パルチザンの掃討戦に投入された。

1945年に第二次世界大戦が終結すると、クロアチア独立国は解体され、ボスニア・ヘルツェゴビナは社会主義化したユーゴスラビアに移管された。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争

1992年、ボスニア・ヘルツェゴビナは、スロベニアクロアチア北マケドニアに続いてユーゴスラビアからの独立宣言をした。

しかし、ボスニア・ヘルツェゴビナは多民族国家であったため、独立を巡って問題があり、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が発生した。EU国際連合が和平案を提示したが、同意を受けることはできず、紛争は長期化した。1995年には、NATOによる空爆が開始され、多くの死者が出た[3]

1995年11月、アメリカ合衆国主導でデイトン和平合意が成立。これにより、国連監視のもとで、ムスリム系とクロアチア系の「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」とセルビア系の「セルビア人共和国」の二つの政体による一つの主権国家が成立した[4]

脚注

関連項目

外部リンク

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